最初から、僕の手中に君はいる
部長と私
「いづれ、僕なしじゃいられないようにしてやる、って意味だよ。分かる?」
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今まで何度も話しかけられたことがある。
今年1月の人事異動で新たに総務部部長が移動して来てから7か月が過ぎたが、同じ空間で仕事をしていて、何か仕事を頼まれたこともあったと思うし、雑談もしたと思う。
けど、ほとんど覚えていない。
つまりそれくらい、あまり興味がなかったからだ。
知っていることといえば、畑山 誠二(はたけやま せいじ)といいう名前と、年齢が35歳くらいということと、多分独身ということ。
……よく考えてみれば確定して知ってることといえば名前くらいか。
「昨日、帰りがけに畑山部長にちょっと怒られちゃって。デスクの横で立ってたんだけど、ほんと廊下に立たされてる小学生の気分だったわ」
右隣のデスクの池内は、部長が席を外した隙とばかりに、キーボードを触る手を休め綺麗な顔をしゅんとさせた。
「何があったんですか?」
その、化粧が完璧な顔を覗き込みながら、私は聞いた。
「新しいソフトの使い方のことなんだけど、それがよく分からなくて。で、たまたま近くにいたから聞いたんだけど、
『前も教えたよね? 分からなかったらちゃんとメモとってね』って。
私、辞めろってことかしら……」
既に小学生の1人娘がいる池内にとって、仕事をやめても夫の稼ぎがあるのでこの会社に拘る必要もないのだろうが、その顔は明らかに落ち込んでいた。
「一言多いですよね! 別に部長なんだから部下に仕事を教えてくれるは当たり前なんだし!」
憤慨して、気持ちを盛り上げてあげようとしたのに、
「でも私、あの顔好きなのよねえ」
と、単なる主婦の愚痴だったことを明かした。
「池内さん、ストライクゾーン広すぎですよ! 部長はまあ、顔がいいから人気なの分かりますけど、取引先の河野(かわの)さんもいいんでしょ!?」
「なんか清潔感あるじゃないあの人♪ 髪の毛のピシっと決めて」
「そりゃ仕事ですから多少は綺麗にしてるんでしょうけど……、池内さん、誰でも恰好いいって言うからなあ……」
「私だって選んでるわよ! 高知(たかち)さんも声がすごくいい!」
高知とは、同じ部署の35歳独身の男性社員。確か部長と同じくらいの年だが、今だ平社員で、芸能人のクリス松村に似ているなと、最近よく思っていた。
「声だけいいって、どうでもいいです……」
「そんなことないわよ、性格も物知りだし」
「普段使わない機械のことなんか知ってたって、意味ないですよ! ねえ、秋元(あきもと)さん?」
今度は左隣の秋元が手を休めたのに気付いて話をふった。
「私は、ないな」
秋元は、私の目をしっかり見て頷いたが、こちらも35歳を過ぎていまだ結婚もせず、若い男性社員と趣味のゲームに興じている現実をみれば、高知でもいいのでは!? と勝手にペアリングを成立させたくもなる。
「声がいいなんて、どうでもいいですよね?」
「というか、全体的にどうでもいい」
制服のピンクのベストと下のブラウスが今にもはじけそうな胸と腹の秋元は、ぶるんと身体全体を揺すって立ち上がって行った。
「秋元さんに誰か素敵な人、いないんですか?」
私は既に手を動かし始めていた池内に小声で問う。
「主人の友達とかも聞いたことあるけど、もう大体みんな結婚してるのよ」
「はあ……そっか」
秋元と池内とは、私、藤沢 彩(ふじさわ あや)が3年前に入社し、総務部に配属された時からの友人ともいえる同僚だ。3人+αで食事に行くことも多々ある。
池内と秋元は年が同じ35歳だが、独身と主婦の垣根を越えて仲がいいし、その間に立っている25歳の独身の私も同じように接してくれている。
「ちょっとぉ、永井(ながい)君、今度の食事会の段取りしたぁ?」
10人程度の室内に高い声が差し込んだ。こちらはなんと、大企業の専務を夫に持つ主婦、扇(おうぎ)だ。この会社の社長の母親と親戚に当たるとかで、かといって、権力はないに等しいがあるような振る舞いをするのがいつものこと。だが、その分仕事はしっかりできるし、世話好きで面倒見が良いおばさんだ。
「えっと、この前言ってたお店でいいですか?」
私の前に席を持っている、まだ入社して2年の永井は、長身の半分を占める長い脚をデスクの下から出し、ふんぞり返って座り直すと、扇と目を合せた。
「いい、いい。そこで予約しといて? 多分みんな行けるから」
「分かりました」
あ、そういえば来週だったな、と思い出す。何かの歓送迎会というわけでもないが、一度みんなで食事に行けたらなあというなんとなくの思いを、扇と永井が形にしたのだった。
「あー!!! これはまた、どうもどうも!!!」
かなり離れた部屋の隅から声が聞こえ、振り返って見ると、菅原(すがわら)が携帯片手に薄い頭を意味もなくペコペコと下げている。
「声でかい」
秋元が言いながら、席に戻って来た。
「ま、もう年だから仕方ないけど」
シニアパートナーになる前は、庶務部長だった菅原は、笑顔と大声で電話を続けているが、その昔は秋元の上司だったということもあり、むしろ同志に近いという仲であった。
「声でかいなあ……」
ひょいと背後に現れたのは畑山部長。彼は同じように菅原を見てから、1枚のプリントを私のキーボードの右隣に置いた。180近い長身のわりに、穏やかな空気のせいか、気付くのが一瞬遅れた。
「これ、夕方までにお願いできるかな?」
私は慌てて内容を確認しようと、キーボードの手を止め、シャーペンを取りだした。
「えっと、このデータを打ち込めばいいですか?」
「ええと……」
同じような小さな数字が羅列しているのを見づらそうに、畑山は顔を下ろしてきた。
「見にくいなあ。もっと大きい紙で出せばよかった。見えるかな?」
「あっ、はい、見えます!」
「じゃあ、これ……これ。これね」
畑山が指差すところを、忘れないようにチェックする。
「はい!」
勢いよく返事したのはいいが、お互いの頭が近付きすぎて、触れないか心配したくなるほどの距離だった。
不意に鼻が匂いを感知する。
少し甘い、香水のような香りだった。
それに気づいて一旦匂いに集中してしまう。
「そういえば来週だったかな、食事会」
「えっ、あ、はい! みたいです!」
頭を位置に戻した畑山を見上げた。
「あそう……行けるかな……」
独り言のように呟きながら、去ろうとする。
「部長、できました」
池内のピシっとした声が聞こえ、それと同時に畑山は池内のパソコンの画面を見入るように顔を近づける。
畑山が手を置いたのは、池内の椅子の背。
まるで、背後から手を腰にまわしているかのようなスタイル。
私は咄嗟に目を反らした。
突然、2人が親密な関係ではないのか!? という気持ちにかられる。
いつも通りを装う畑山の、ディスプレイを見つめる視線。
と、それらを全て承知で、素知らぬ涼しい顔をしている池内……。
「うん、いいね」
それだけ言うと、畑山は自分のデスクに戻った。
いやまさか、そんな……。
池内は子持ちとは思えないほど綺麗で、几帳面な上に女性らしいけど、まさかそんな、不倫だなんて……。
「いやーあの、それはですね!!」
白髪の菅原が前のデスクの永井の隣に立つ。何やら書類を出してもらっているようだ。
「んもう、声でかい……」
書類を抱えた扇が、背後で眉間に皴を寄せながら歩いて行く。
私はふうっと溜息をついて、目の前のパソコンと画面右端のデジタル時計を確認した。
定時まではまだまだ時間がある、というのがいつもの仕事の流れである。
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