最初から、僕の手中に君はいる
7 抱きしめたかったけど、やめておくよ
「肩凝るわー」
右隣の池内の肩こりは酷く、それが頭痛にまで発展することはしょっちゅうだ。今も綺麗なネイルをほどこした白い手で、自分の肩を器用に揉んでいる。
だが、今日は凝り性ではない私でも肩と目が痛くなるほどの作業量だった。
長期休暇明けというわけでもないのに、仕事が重なり、左隣の秋元も朝からずっと無言である。扇までその作業を手伝ってくれている始末でどうにか今日中に仕事は終われそうだが、
「誰ですかぁ!? これ、ここに缶捨ててるの。あの、ちゃんと分けてから捨てて下さいね、時間の無駄になるんで」
一応ゴミ分別の係りになっている菅原は、まあ、その必要はあるが大声で部屋の端からみんなに声をかけた。
ほとんどの人がちら見して、作業を続ける。
「あ、気をつけます……」
缶ジュースを飲んだわけではないが、返事のつもりで私は菅原に言った。
「いや、女の子でないことは分かってるんよ、コーヒーやから!」
普段、缶コーヒーを飲む女子社員はいないため、菅原は誰と心当たりがある名前を言いたそうであったが、当の本人は知らんフリをするようだ。
「あーもー間違えた……」
秋元の前の席で扇がイラついた声を出す。それくらい今は、ピリピリした状況と言ってもいい。
私も集中して前を向く。
「ここ……」
驚いて、あやうく声を出してしまいそうになった。
背後から音もなく伸びてきた腕は、私の顔の横をすり抜け、目の前のディスプレイの一部分を指差す。まるで、後ろから抱きしめられているような感覚と、その声に、心臓が痛いくらいドキリと鳴った。
「ここ、間違えてます」
その、永井の声を聞いても、数秒、動けなかった。
「…………えっ、あっ、あ! ほんとだ……」
慌てて資料と見比べると、まず最初の数字を入力し間違えていたせいで、全てが狂っていることが、今、ようやく3時を過ぎた時点で発覚した。
「えー! うわっ、最悪……今日残業確定だ……」
キーボードに手を置いたまま目を閉じた。そのくらい、撃沈するほどの単純ミスであり、これから膨大な時間をかけなければいけない作業量であった。
「もしかして、最初の数字入力間違えた?」
左隣の秋元がキーボードをたたきながら聞いてくれる。
「はい……」
「これ分かりにくかったからなあ……」
そこで話は終わりらしい。秋元はすぐに前を向いた。
「ありがとう、永井さん。助けてくれて」
私は、首をもたげたまま言った。
「僕はただ気付いたから言っただけですよ」
「助かりましたよ、私。……8時には帰れそう」
「手伝いましようか?」
社交辞令だろう。言ってくれるが、もちろんそうはいかない。永井は私よりも大事な仕事を任されている身分だ。
「ううん、大丈夫です。予定があるわけじゃないし」
という流れがあっての現在午後7時。知人の送別会があるらしい扇と永井、絶対に残業はしない、というかできない主婦の池内が早々に帰り、秋元も「手伝おうか?」と話しかけてくれたが、先輩に甘えるわけにはいかないと、きっちり断って、男性社員もぞろぞろ帰宅したところだ。
残っているのは、つまり、私と畑山部長だけになる。
畑山というと、ずっと朝から何か忙しそうで、私が今何で残業しているのかも知らないような状態だ。
今まで残業といえば、たいてい秋元か扇が一緒だった。単独ミスでここまで居残りするのは初めてかもしれない。
だが、1人で仕事しているほど作業の速度はどんどん上がった。不思議なものだ。
後30分くらいで終わるかもしれないと思いながら、もう一度確認をしようと手を休めたところで、畑山が席を立ったのが分かった。
もしかしたらもう帰るのかもしれない。ということは、警備室まで、施錠をお願いしに行くの、私の役目かあ……。
「もう終わる?」
畑山はこちらに近寄りながら、聞いた。
「あっ、……いえ……あと、30分くらい」
「えっと、何してたんだっけ」
キシ、と私の椅子の背もたれが軋むのが分かった。私の背に触れてはいないが、椅子の背に畑山が手を置いてきた。
まるで、背中を触られているような気分になり、一気に緊張感が増した。
「あっ、あのっ、朝、入力ミスして……」
椅子の背もたれに手を置いたまま、畑山は画面に顔を近づけた。
「……でももう、終わるね」
「あっ、はい、もうすぐ……」
言うなり畑山は、池内の席に腰を下ろした。
「終わったら言って。それまで僕、もう少し作業するから」
言いながら、池内の席にあったファイルを勝手に手にとっている。
「あっ、すみません。あの、私……」
警備室に自分で行きますので、と言おうとしてやめた。畑山は別に、自分の仕事が残っているだけかもしれないし。
畑山もこちらのことを何も気にせず、ファイルに目を通しているようだ。
私は隣の気配を振り切り、ディスプレイに集中することにする。
緊張感で最初は何度も打ち間違えたが、次第に気配を忘れ、前だけを見ていた。そのせいか、ものの15分で仕事が終わる。
「終わりましたー」
ほっとした溜息と同時に声を出した。
「はい、お疲れさん」
畑山は同時にファイルを戻し、首を回した。
「すみませんでした。あの、畑山部長はまだ仕事ですか?」
聞きながら立ち上がって、姿勢を伸ばし、ディスプレイの電源を切った。
畑山も同じように立ち上がり、
「僕はもう終わってるから」
あ、やっぱり警備室に言いに行ってくれるために残ってたんだ、と申し訳ない気持ちになり、感謝の意を述べようとその方向を見た時、
「よく頑張ったね」
息が、止まるかと思った。
実際には心臓が痛く、そのせいで息ができなかったのかもしれなかった。
畑山は、私の前方に立ちながらも私の背に右腕をまわし、ぽんぽんと、軽く叩いた。
まるで、抱きしめられているような恰好。
ほんの一瞬のことで、すぐに畑山は何事もなかったかのように、元に戻る。
「……」
だが、さすがに私は流せなかった。身体は固まり、自然に手が口元近くに動いていた。
「抱きしめたかったけど、やめておくよ」
畑山はこちらを見て、にっこり笑顔で言う。
それをどうとってよいのか分からず、困惑した。
その笑顔は何なのか、単なる冗談なのか、それとも、本気の前の合図なのか。
静止しすぎたせいで、自分が本気でとってしまったことが相手にも伝わったかもしれない。そう考えても、うまく次の行動に移せなかった。
「あれ……ごめんね、冗談じゃないから」
畑山は私の顔を少し覗き込むようにしながら、真剣な声を出した。
しかし、その表情を確認することはできない。
「あら……いやあ、まいったな……。ま、とにかく帰ろうか。ここにいても、なんだし」
急に声が明るくなったが、どんな顔をして相手を見ていいのかも分からない。
「電車で来てるんでしょ? 送るよ、家まで」
思いがけない言葉に、さすがに顔を上げた。
「車、表にまわしてくるから。良かったら乗って帰ればいいよ。都合悪ければ電車でもいいし。とりあえず、先行ってるから」
畑山は先にバックを取り、スタスタ歩いて行ってしまう。
「あ、守衛には僕が言っておくから」
のいつもの声を聞き、
「はい」
と、ようやく仕事用の返事ができた。