晴明の悪点
天冥は独りだった。
一条戻り橋の下に流れる川は美しかったが、艶やかな妖光に見えないこともない。
貴族の邸宅でよく見る、遣り水に似ていて虫唾が走りかける。
しかしそれも、いつも通りであれば、だ。
今は苛立ちを感じることもできない。
どうしてか。
莢のことで、脳の隅々まで埋め尽くされている。
好意だとか色情だとかいう類のものではなく、彼自身でも言葉にしがたい、
満足感とも称せないものである。
不安のようなものへ、天冥は不快感を抱かずにはいられなかった。
(どうしたのだ、俺は)
もうここ最近、莢のことなど忘れていた。
好きでもなくなっていたつもりだったが、ふたたび顔を合わせた瞬間に、だ。
懐かしさだの、切なさだの、愛しさだの。
下らぬはずの恋情が僅かに蘇ってきたのだった。
あの女は死んだはず、そう、もう世にはおらぬ者だというのにだ。
(亡者は亡者ぞ。もう人ではないのだ)
人のことを言えた義理ではないが、亡者ももう人ではない。
人の体を持つ、御霊の抜け殻である。
しかし――莢の顔は、どう見ても人のものだった。
人であったころの莢の残像と、紙一重と違わず重なっていた。
水面に、橋の上に腰を掛けた己の姿は映らない。
その水面は、付け髭をつけて烏帽子をかぶった、貴公子を気取ったような今の天冥の姿も、
茶髪をふり乱した、ちょっとばかり男前な獣のような男の姿も、どちらも映さない。