暁を追いかける月
13 懺悔
穏やかな一週間はあっという間に過ぎた。
エレとともに家事をこなしながら、ユファの治療院で雑用とともに、助手まがいのことまでした。
治療院への送り迎えは、キリがしてくれた。
キリはまたおいて行かれたと文句をつけていたが、村に戻って馬の世話をする合間に女とともに治療院の手伝いも時々してくれた。
ユファとも軽口を聞きながら仲良くしている。
どこででも生きていける逞しい子だった。
自分がもし男に生まれていたら、あんな風になりたいと思う。
こんな、何もできない、誰かに頼るだけの惨めな存在でなく、一人で強く生きていけたら――この虚ろな心も満たされていただろうか。
その日の手伝いの終わりは、いつもより早かった。
まだ日が暮れるには三時間も早い。
全ての治療が済み、後片づけも終えてしまい、女は他にすることがないかと診療部屋を見渡す。
すべきことが終わって整然とした部屋には、それ以上することがないようにも思えたが、女は薬棚へ行き、引き出しを開け、名前ごとによりわけされてあるかをもう一度確かめる。少なめなものを頭に入れ、明日はキリに手伝ってもらって薬草を探しに行こうと考えているとき、
「リュシア」
診療部屋の扉が開いて、ユファが入ってきた。
「先生、明日は薬草を採りにキリと裏山へ行ってきます」
「あ、ああ。全く働き者だねえ、あんたは。乾燥中のがまだあるから、そんなに急がなくてもいいよ。のんびりしてきな。それより、こっちへおいで」
手招きをするユファに、女は引き出しを閉じて、近づく。
ユファは女の手を取ると、診療着である白衣の衣嚢から小さな袋を取り出して、のせた。
「?」
「一週間分のお手当だよ。そんなに多くはないけど、きちんと働いてくれたからね」
ユファが手を放したから、女は手の中のものを咄嗟に握りしめる。
硬貨の堅さがちゃり、と音を立てた。
「も、もらえません。むしろ、あたしが払わないと――怪我を治してもらったのに、お金を払ってないのはあたしの方です!」
「あんたの怪我は、若造に払わせるよ。あいつを庇って斬られたんだろ。それに、若造があんたに払わせるわけがない」
「駄目です。これ以上――」
言いつのる女を、ユファが片手をあげて留める。
「シーツを洗い、部屋を綺麗にし、病人の食事を作る。怪我人が出たらあたしが診終わった後、包帯を巻く。飲み薬の処方も間違いなかった。あんたはこの一週間よくやってくれたよ。これは正当な報酬だ。これからもお願いしたいから、もらっておくれ。そして、あたしに雇われておくれよ。この治療院にはあんたが必要だ」
必要だ――そう言われて、胸が詰まる。
こんな自分でも、まだ誰かの役に立てることが、嬉しかった。
雇われてくれ――ユファはそう言った。
ここで働いて、ある程度の額が貯まったら、ここを出て、一人で生きていけるだろうか。
「あたし、ここにはずっとはいられなくても、それでも、いいですか?」
「いられないって、ここにいたくないってことかい? それとも、いたいと思っててもってことかい?」
「――」
「あんたの人生だから、好きにしろっていいたいけど、あんたにもここが必要だよ。できればずっといてもらいたいね」
その言葉に、泣きたくなる。
あまりにも優しい人達。
誰もがみんな、自分に優しい。
優しくしてもらう価値もない女なのに。
「先生、どうして、こんなに親切にしてくれるんですか?」
ユファが肩を竦める。
「医者だからね。あんた、最初に運び込まれたとき、あたしを見てなんて言ったか覚えてるかい?」
女は首を傾げる。
自分が何を言ったか、憶えていない。
あの時は痛みで朦朧としていたのだから。
「助けないで、死にたい――そう言ったのさ」
「――」
「あんた、ここへ来てから一度も笑ってないよ。自分でも気づいてるだろ? 心も身体も疲れ切ってるんだ。だから、死にたいと思うのさ。死にたいって言う人はね、本当は苦しみを終わらせたいと願っているんだよ。あんた、苦しいんだね?」
ユファの消毒薬で荒れた手が、女の手を掴む。
かさついているのに、温かかった。
「苦しみを終わらせたいんだろ? でも、どうすればいいかわからない。だから、余計に苦しんでいる」
言葉にならない何かが込み上げる。
吐き出してしまいたい衝動に、女は脅えた。
言ってしまいたい。
でも、怖い。
ユファも、自分のしたことを知ったら、自分に背を向けるだろうか。
ユファは、そんな女の脅えを感じたのか、優しく声をかける。
「何があんたをそんなに苦しめてるんだい? 言ってごらん。助けに、なれるかもしれないよ。助けになれなくても、傍にいてやれる。あんたが苦しみを終わらせられるまで、ずっと傍にいてあげるよ。何を聞いても、あんたを見捨てたりしないよ」
女の瞳から、思いがけずに大粒の涙がこぼれ落ちる。
「……とを……」
言葉が震えて、音にならなかった。
息を大きく吸って、もう一度、女は言い直した。
「弟を……殺したんです……」
言って、女は懺悔するように膝をついた。
女は全てを話した。
自分の生まれた国のこと。
家族のこと。
リュマのこと。
皇宮での地獄のような二年間のこと。
弟の死を告げに来た男と出会ったこと。
皇国の滅びを望んだこと。
復讐の旅のこと。
そして、その結末を。
泣きながら、たどたどしく話す女を、ユファは隣に寄り添って、黙って聞いていた。
すでに陽は傾き、薄暗くなるまで。
長い長い時間をかけて、女は全てをユファに話すと、新たな涙がまたわき上がる。
「誰も、あたしを責めないんです……いっそ罵って、捨てておいて欲しいのに、生きる価値もないのに。復讐を望みながら、何一つ自分でできなかった――いいえ、しなかった。全部、あの人に、みんなに押しつけて、最後の皇子でさえ、自分で殺せなかった。そんな勇気も持てなかった。できることは、何もなかった。何一つ満足に出来ない、役立たずだったんです……」
「でも、誰かに責められたら、それこそあんたは壊れてしまうよ。皇宮で暮らした二年間は、責められ続けて苦しかったんだろ? それを繰り返したいのかい? そうじゃないだろ」
ユファの言葉に、女は逡巡する。
「……あたしは、責めてほしいのかしら。それとも、許してほしいのかしら……」
「どうなんだろう。どちらにしても、あんたの心がそれを感じなければ、責めも、許しも意味がないのさ」
そう言って立ち上がると、ユファは水をくんで戻ってきた。
「たくさん泣いから、これをお飲み」
薬を煎じるための大きな鉢に並々と入った水を、女は素直に飲んだ。
飲んで大きく息をつくと、ユファが笑った。
「いい子だね。もう暗くなる。そろそろ坊主が迎えに来る頃だよ。帰り支度をしようか」
「――はい」
ユファが鉢を、女が涙で汚れた診療用の手拭いをそれぞれの場所へ片付けた時、ばたばたと足音が近づいてきた。
どんどんと扉を叩く音とともに、
「リュシア、迎えに来たぞ」
キリのいつもの声がかけられた。
もう暗いからと、ユファはキリと一緒に女を送ってくれた。
ユファがいるからと、キリは村の入り口で別れた。
エレの家まで二人が着くと、帰ろうとしたユファをエレが引き留め、三人で食卓を囲む。
会話は専らユファとエレだが、それが今日はありがたかった。
片付けを三人で手早く済ませると女は早々に部屋へ上がり、ユファは少しエレと階下で話していた後、治療院へと戻っていった。
部屋で夜着に着替えて、こもった熱をはらうために窓を開ける。
空には瞬く無数の星。
それを見上げて、女は今日の出来事を思い出す。
ユファは女を責めなかった。許しもしなかった。
たくさん泣いたからと、綺麗な水を飲ませてくれた。
女の言うことを、ただ受け入れてくれた。
それまでずっと思っていたことが堰を切るように溢れだした。
口に出すと、また新たな感情が沸き起こる。
たくさんのいろんな感情が自分を翻弄していた。
怒りや悲しみ、恨みや苦しみ、悔いや諦め、それでもと足掻く惨めさ。
それを口に出したことで、ほんの少し、楽になったような気がする。
男と、そういった感情を分け合うことはできなかった。
だって、男は全てを知っている。
そして、女の罪をただ許してしまう。
許したまま、なかったことにしてしまう。
そうして自分で、罪を負おうとする。
女を憐れみ、罪悪感を持ち続ける。
そうではないのだ。
そんなことを望んでいるんじゃない。
憐れみで、罪悪感で、一緒にいてもらいたいのではない。
でも、常に自分達の間には愚かな罪が立ちはだかる。
どこまでいっても、そこから逃れることはできない。
忘れたふりもできない。
どちらも、リュマを愛していたから。
男を見るたび、弟を思い出し、男は自分を見るたび、弟を思い出す。
そして、そこに繋がる罪を見る。
そんな二人が、一緒にいてどんな未来を築けるというのだ。
だからこそ、一緒にはいられない。
そう思いながら、一緒にいない未来を描こうとした。
ここで僅かであろうが、旅費を稼いで、どこか遠くの、男も、男衆達も、キリも、ユファやエレもいない見知らぬ町で生きていく自分。
世間知らずの自分が、一人で、ひっそりと生きていくなど、できるのだろうか。
二年の皇宮暮らしで、女は人の悪意というものを思い知らされた。
身体の苦痛こそ与えられなかったが、心は、執拗に傷つけられた。
人間というものは、どこまでも残酷になれる。
あの時、自分の心を支えていたのは、二年という時間の区切りとリュマへの思いだけだった。
また、あのような悪意に晒されながら、リュマもいない今、傷ついていないふりをして生きていくことに一体どんな意味があるというのか。
苦しかった。
どこにも行けない自分が。
惨めだった。
強くあれないこの心が。
「――」
涙が頬を伝う。
静かな夜に、いっそう静かに思う。
死んでしまいたい。
この心ごと全て、終わりにしてしまいたい。
それでも、思うだけで、それを実行する勇気も持てない。
そんな自分を疎んで、堂々巡りが続く。
あんなに泣いても、まだ涙は出るのだと、おかしくもなる。
夜風が身に染みて、窓を閉めようとしたとき、不意に、家から離れた暗がりに黒ずくめの男の姿を見つけた。
帰ってきたのだ。
いつからそこに、いたのだろう。
夜の中に溶け込むように、男はただ、女を見上げていた。
暗いので、表情まではわからない。
女もただ、見つめていた。
心も身体も、今もずっと果てしなく遠かった。
それでも、見つめていたいと思うのは、なぜなのだろう――