暁を追いかける月

15 罪の線引き


「何を――」
「どの女だ、部屋を教えろ」
 短く言い捨てた言葉にはっとする。
 カリナのことを、言っているのだ。

 キリに聞いたのか。

 男の怒りが伝わってくる。
 答えない女に男は自分の背後を振り返る。
「キリ、どの部屋だ」
 大きすぎる男の身体で、女にはキリの姿は見えなかった。
「キリ、教えないで!!」
「――」
 咄嗟の女の声に、キリは答えるのを躊躇ったようだ。
 男は小さく舌打ちすると、女の脇をすり抜けて大股で奥へと進んでいった。
 女は一瞬呆気にとられたが、すぐに走って後を追う。

 まさか、一つ一つ扉を開けて確かめる気なのか。

 女の思ったとおり、男は、一番最初の扉――女が怪我をしている間に寝かされていた部屋だ――を乱暴に開け、中に入る。
 そこは生憎と無人だった。
 娼婦達とカリナは一番奥の部屋から使わせていた。ゆっくりと休めるようにとの配慮からだった。
 人がいないのを確かめて別の部屋へと動こうと振り返ろうとした男に、女が止めようとしがみつく。ちょうど男の腰に、横から抱きつくように。
 男が咄嗟に動きを止める。
 女を見下ろし、短く言い捨てる。
「――離れろ」
 女はしがみついたまま顔を上げ、男を見上げた。
「カリナのところへ行くつもりならやめて。ここは治療院よ。他にも休んでいる人がいるの。帰ってちょうだい」
「なぜ庇う!? あの女さえ裏切らなかったら、こんなことにはならなかった!!」
「――」
 怒り、苛立ち、そういったものをここまで露わにする男を、女は初めて見たような気がする。
 いつもは感情を抑えて誰にでも接していたのに。
 怖そうに見えても、女は男を怖いと思ったことはなかった。
 だが、今の男は怖かった。
 怒りを隠せぬその様子に胸が痛い。
 男のそんな姿を見たくなかった。
 女は、静かに問うた。
「そうなの? 本当に、カリナだけが悪いの? 他の誰にも罪はないの?」
「――」
 静かな問いかけに、男が言葉を失くす。
 驚いたように女を見つめた。

「罪に、どこで線を引くの?」

 金を盗んだカリナか。
 間に合わなかった男か。
 皇宮へ行くと決めた自分か。
 自分達をおいて先に死んでしまった父と母か。
 皇族か。
 国か。
 どこで線を引いて、どこからが罪だと判じればいいのか。
 少なくとも、自分が決めていいわけではない。
 男もだ。
「カリナはもう十分罰を受けたわ。今も、受けてる。そうして、死んでいくの。それでも責めるの?」
「――お前は、許せるのか?」
 その問いに、しばし躊躇う。

 誰を?
 カリナを?
 自分を?

「……わからない。でも、殺したいとは思わない。責めることもできない。考えたくないの。思い出したくもない。だから、黙っていて。これは、あたしの仕事なのよ。先生に手伝うと言ったの。最後までやらせて」
「――」
 女は、言うだけ言うと、しがみついていた腕を放した。
 そのまま身体も離そうとしたとき、男の大きな手が顎の下を押さえつけ、残る手が腰を抱き寄せ、覆い被さるように唇が重ねられた。
 驚きで動けない女の口内に舌が入り込み絡み合う。
 そこには、平素見せていた優しさは微塵もなかった。
 怒りのままに、乱暴にくちづけられ、背筋が震える。
 だが、それは恐怖ではなかった。
 いつもすぐ近くにいたのに、一週間も離れていた。
 男の気配も、服越しの感触も、ひどく懐かしく感じた。
 いけないと思う心とは裏腹に、身体が、触れられて喜んでいる。
 拒まなくてはならないのに、餓えたように求められて泣きたくなる。

 いっそ応えてしまいたい。
 だが、できない。

 相反する心で、引き裂かれてしまう。
 堪えきれずに零れた涙が、男の手に伝った。
 男の動きが止まる。
 抱き寄せていた腕から力が抜けると、女は背後の壁に背を預けた。
 男の視線を痛いほどに感じたが、顔を背けた。
 今見たら、きっと、その瞳に見えるのは、憐れみだろうと思いながら。

「好きにしろ――」

 短く言い捨てて、男は静かに出て行った。
 気配が遠ざかるのを感じながら、女は大きく息を吸って、吐いた。
 涙を拭い、髪と服を整える。
 するべきことがあるのだ――そう、気持ちを切り替える。
 部屋を出ると、キリが立っていた。
「――」
 キリに、今の自分はどう見えているのだろう。
 大好きな統領を振り回している自分を、いつか憎むだろうか。
 だが、キリは気まずそうにごめんと謝っただけだった。
「いいのよ。今日は手伝ってくれてありがとう。薬草取りは、また今度ね」
 笑おうとして――笑えなかった。
 ユファに言われたとおり、自分は一度も笑っていない。
 弟が死んでから。
 もう二度と、笑える日は来ないかもしれないと思いながら背を向けて歩き出す。
 カリナの食事の器を、片付けにいかなくては。
 背後からキリの声がかかる。
「リュシア、統領は自分のために怒ってんじゃないぜ。傷つくお前を、もう見たくないんだ」
「……わかってるわ」
 嫌というほど、わかっている。

 だって、自分は今、十分すぎるほど与えられているから。
 奪われ続けたカリナを、憐れだと思えるほどに、優しい人達が傍にいてくれたから。

 それでも満たされないと感じる傲慢な自分に、気づきたくない。

 どうしてなの――自分に問う。

 ここで穏やかに過ごして、少しは楽になれたと思ったのは、つい昨日のことだ。
 忘れるなとでも言いたげに、いつも過去に、己の罪に、引き戻される。
 こんなに広い世界で、なぜ、よりにもよって、会いたくなかった――会いたいとさえ思っていなかったカリナに、出会ってしまうのか。
 そうして、思い知らされる。

 自分は、許されない。

 許されるはずもない。
 罪が、深すぎて。

 どこに逃げても。
 どこまで逃げても。


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