暁を追いかける月
16 自覚
忙しない日々が続いていた。
娼婦達の世話をし、カリナの世話をし、赤ん坊の世話をする。
三日後に娼婦達が帰り、カリナはエレが面倒を見てくれるので、赤ん坊の世話にかかりきりになった。
大人しい赤ん坊だった。
泣き声も弱々しく、泣くだけでぐったりとしてしまう。
ユファの見立てでは、心臓が悪いから、あまり泣かせないようにとのことだった。
そのため、女は常に赤ん坊を抱いていた。
村には乳の出る女はいないため、山羊の乳にユファが調合した薬と赤ん坊に必要な薬草を煮だして混ぜたものを与えた。
夜はカリナのところに戻るので、女は部屋へ戻り休む。
ユファが夜中に三度二人の様子を伺いに行く。
カリナは微熱が続き、体力がすっかり落ちていた。
それでも、夜は必ず赤ん坊と一緒にいたがった。
暗闇の中、赤ん坊をずっと抱いているとユファが教えてくれた。
そんな毎日がさらに三日続いた後、女は右腕の痺れを感じていた。
腕を使いすぎたせいか、肩が熱を持っていた。
斬られた肩が一番傷口が深かったせいで、まだきちんと塞がっていなかったのだろう。
こっそりと寝泊まりしている部屋に薬草を持ち込んで簡単な湿布薬を作り、肩と脇の下で包帯を巻いてずれないようにした。
湿布のおかげか、腕の痺れも弱まり、仕事には支障もなくなった。
朝になり、赤ん坊を受け取ると、今日は一層大人しく、弱々しげに見えた。
部屋を出ようとする女に、カリナが声をかける。
「あたしとは血の繋がっていないこの子は、優しくしてやって。この子もきっと、助からない。心の臓の病だって……生まれつきだって。死ぬまでの間でいい、優しくしてあげて。あたしが、ホントはそうしたかったけど、もうできそうもないから……」
何と答えていいかわからず、女は黙って部屋を出た。
厨房へ向かうところで、男と会う。
「鳥をおいておいた」
「ありがとう」
山でしとめてきたのだろう。
短く礼を言って、女は男とすれ違う。
「死ぬとわかっているのに、何故心を寄せる――」
冷たいような男の科白にも慣れた。
振り返ると、その眼差しにはやはり憐れみが見える。
キリの言うとおり、男は女が傷つくのを恐れている。
だが、これ以上傷ついたところでどうだというのだ。
癒しがたい傷をすでに心に抱えている。
この傷に比べたら、他のことなど傷ついた内にも入らない。
「リュマが死ぬとわかっていたら、あんたは離れていったの?」
「――」
「そうじゃないでしょ? あんたは弟を大切にしてくれた。死ぬとわかっていても、きっと一緒にいたでしょう。同じように、あたしもこの子が大切なの。そういうことよ」
「また、泣くだろう」
「ええ、泣くわ。何度でも。でも、あたしには必要なことなの、生きていくために」
どんな苦しみでも受け止める。
それが、生きていくということなのだ。
男は死ぬのを許さないと言った。
だから、生きる。
どれほど死にたいと願っても、それでも生きる。
死ぬのなら、誰かを護って死にたい。
誰かの役に立って死にたい。
今はそう思えるようになったから。
そうでなければ、許されないだろう。
耐えて耐えて。
泣いて泣いて。
村長の言葉通りいつか全ての罪が許されたなら。
死んだ後、リュマに会えるかもしれない。
そんな一縷の望みに縋って、今は生きていた。
何も言わない男に、黙って頭を下げると、女は背を向けて厨房へと向かった。
母が弟のリュマを産んでから間もなく亡くなり、それから八年間、育ててきたのは女だった。
赤ん坊の世話など容易い。
おむつを替え、乳を飲ませ、あやす。
リュマの赤ん坊だった頃とは全く違う、大人しい赤ん坊だった。
泣くときでさえ、静かに泣く。
激しく泣いては身体に負担がかかると本能で知っているのか、赤ん坊らしからぬしゃくりあげを繰り返すだけだ。
細く小さな身体は、それでも温もりを探して手を伸ばす。
髪の一房を捕まえると、弱々しく引っ張る。
リュマの時は、もの凄い力で引っ張られ、痛かったので、全て後ろで髪を纏めていた。
今は少し首を傾げるだけで、痛みなど何も感じない。
リュマは、よく笑い、よく泣く、元気な赤ん坊だった。
げっぷさせようと背中をさすると、けふんと可愛らしい音を出して、そのまま寝入ってしまった。
はいはいも早かった。
きゃっきゃと喜んではってくるその姿を、今も鮮やかに憶えている。
赤ん坊の世話をするたび、赤ん坊だったリュマを思い出し、切ない喜びが沸き上がる。
人見知りも少なく、誰にでも愛された。
大きくなっても、変わらなかった。
赤ん坊を抱きしめながら思う。
リュマに会いたい。
今も、こんなにも、会いたかった。
その夜、眠っていた女は明け方近くに廊下を走る気配に気づいて目を覚ました。
上掛けを羽織り、扉を開けると、診療部屋へと駆け込むユファの後ろ姿が一瞬見えた。
急いで追いかける。
「先生!?」
「リュシア、赤ん坊の様子がおかしい。着替えといで」
それだけ言うと、ユファはカリナの部屋へと走っていった。
女も急いで着替えてカリナの部屋へ飛び込む。
寝台の上で、カリナは泣いていた。
赤ん坊を抱きしめたまま、声を上げることなく泣いていた。
ユファが赤ん坊を受け取り、寝台におきなおし、おくるみと肌着を剥がす。
肋の浮き出た肌は、どす黒く見えた。
胸は時折痙攣するように不規則に震えていた。
泣く元気もなく、目を閉じたままだ。
僅かに開いた口が浅い呼吸をしていた。
ユファが耳を赤ん坊の胸に当て、鼓動を確かめる。
「心臓が、上手く動いてない。血が巡らない」
呟いて、ユファは顔を上げた。
鍼を打とうと鞄を開いて、道具を取り出す。
赤ん坊の胸が、一際大きく跳ねた。
「先生!!」
女は思わず叫んだ。
「ああ、駄目だ……」
呻くように、ユファが呟いた。
二度、三度、赤ん坊は痙攣を繰り返し、そして、もうそれきり動かなかった。
「……」
凍えた沈黙が、その場に満ちる。
破ったのは、カリナだった。
のろのろと掛け布を被り、寝台に身を丸めて、声を殺して泣いている。
「――リュシア」
ユファの呼ぶ声は、どこか固かった。
「はい」
「この子を、診療部屋へ」
「――その前に、身支度を調えてやりたいんです。いいですか」
「……ああ。頼むよ」
力の抜けてぐにゃりとした赤ん坊を、いつものように抱き上げ、まず、厨房へ向かう。
お湯を沸かさなくては。
赤ん坊を抱いたまま、鍋を竈におく。
いつも常備してある火種から火を竈の薪に移す。
それから、柄杓で水桶から鍋へと水を移す。
沸き上がるのを待つ間に、診療部屋に身を清めるために必要なものを準備する。
片手しか使えず、時間がかかったが、それでもよかった。
急ぎの仕事ではない。
少しでも長く、抱いていてやりたかった。
診療で使う持ち手のついた桶を片手に厨房へ戻り、細かな泡のつくまで温まったぬるま湯を桶に移し、診療部屋に進む。
すでに日は昇り、室内は明るかった。
消毒用の液を作ったところで、初めて、女は赤ん坊を診療台に降ろした。
消毒液に浸したおろしたての布を絞り、まず、顔を優しく丁寧に拭いてやる。首を拭いて、一旦冷めた布をもう一度消毒液に浸し、さっと絞って、今度は上半身と腕を拭いてやる。
何度か布を温め直し、全身を拭き、用意しておいた肌触りのいい肌着を着せて、おくるみに包んで、ようやく、女は大きく息をついた。
診療台におかれた赤ん坊は、眠っているようにも見えた。
後始末も忘れて、女はじっと赤ん坊を見据えた。
昨日まで弱々しくも生きていたのに。
もう動かない。
死んでしまった。
「――」
不思議と、涙は出ない。
のろのろと腕を伸ばす。
もう動かない小さな身体を抱きしめ、まだわずかに温もりを残す頬に、己のそれを押し当てた。
生きている気配がない。
それでも、身支度を調えた赤ん坊が離せなかった。
ああ、そうかと、女は納得した。
なぜこんなにもこの赤ん坊に心を寄せたのか。
死ぬとわかっていて、最後まで世話をしたのか。
いまも、そうしているのか。
自分は。
これを。
リュマにしてやりたかったのだ。
弟の死を告げられたあの日。
自分は男を振り切って、皇宮の大門へと走った。
明日には荼毘に付される弟を、自分の手で弔ってやりたかった。
十年前、父と、母を弔ったように。
二年前、弟と、父を弔ったように。
今度は、自分が、弟を弔ってやりたかった。
あの時もし、皇宮を出られていたら、弟の亡骸を見ることができたなら、死出の準備を調えてやることができたなら――こんなにも悔いを残すこともなかったのに。