暁を追いかける月

17 やまぬ願い


 キリが朝の手伝いに顔を出してユファから事情を聞くと、大急ぎで馬車を用意してきた。
 この村から馬車で半時ほどで斎場につくと聞いた。
 隣町の外れにある斎場は、村で死者が出ると使われるとユファが教えてくれた。
「あたしが行ってもいいんだが」
「いえ、あたしに行かせてください」
 ユファを遮るように強い言葉が出た。
「気の済むようにしといで」
 肩に置かれた手は温かかった。
 カリナは泣いたまま食事をとらないと聞いた。
 微熱だったのが、さらに上がり、ユファは付き添っていると言ってくれた。
 少しして戻ってきたキリが連れてきたのは馬車だけではなかった。
 馬車の乗り口の前に、男が立っていた。
 赤ん坊を抱いたまま近づく女の身体を軽々と持ち上げ、馬車に上げる。
 それから、男も乗り込んできた。
 柔らかなおくるみに赤ん坊を包み込んだまま、女は黙って片隅に座り込む。
「行くぜ」
 キリの声が聞こえて、馬車は動き出した。
 傍らには男が黙って座り込んでいる。
 ただ黙って、そこにいる。
 いつだって、そうしてくれた。
 だから、自分も黙っていた。
 みっともない自分を、全て黙って受け入れてくれる男。
 それが、憐れみなのが、今はありがたい。
 きっと誰よりも、自分の弟への気持ちをわかってくれる。

 これは、贖罪なのだ。

 あの時できなかった、やり直し。
 弟にできなかった事への。
 勿論、この赤ん坊はリュマではない。
 それでも、リュマにできなかったことをしてやれる。
 傷ついた自分のために赤ん坊を利用するなんてとも思うが、自分には必要なのだ。
 そしてきっと、カリナにも必要だったのだろうと、ふと思った。
 自分が金を盗んだせいで死んでしまったリュマと、この赤ん坊を重ねていたのはカリナもきっと同じだ。
 いずれ死ぬとわかっている赤ん坊をわざわざ拾い、治療を受けさせるために来た。
 無駄だとわかっていながら、それでも。
 それが、カリナの贖罪であり、許しなのだ。
 最後に誰かに何かして、死にたかったのだろう。
 今はもう、カリナに対する複雑な思いはなかった。
 ただ、この腕の中にいるこの子を、安らかに死出の旅へと導いてやりたい――それだけだった。



 馬車が止まった。
「着いたようだ」
 男が馬車からひらりと飛び降りる。
 女が立ち上がって降り口へ近づく。
 男が赤ん坊を抱いている女を抱え、降ろしてやる。
 町はずれの斎場は、ひっそりとしていた。
 煉瓦造りの建物から顔を出したのは、老夫婦だった。
 女の抱いているおくるみを見て、老婦人は祈るように手を重ねた。
 老人はおくるみをのぞき込み、女に向かって問うた。
「名は?」
「――ありません」
 老人はふむ、と首を傾げた。
「では、名を付けてやりなさい。名がなければ、天の門をくぐれない。どこにも行けずにさまよってしまう」
「え……?」
 驚いて、咄嗟に女は男を見る。
「――」
「リュマ」
 代わりに、男が呟いた。
 老人は、優しく微笑んだ。
「いい名だ。東の言葉で、『慈悲《リュマイナ》』をあらわす古語からとったんだな。どれ、リュマ。名をもらったから、天の御使いがお前を迎えに来てくれるぞ。名を呼ばれたら一緒に行けよ」
「――」
 女の手から赤ん坊を受け取ると、老人は話しかけながら裏へと向かった。
 そこには死者を焼く祭壇があった。
 大きなものと小さなものが一つずつ。
 老人はその小さな方に赤ん坊を優しく下ろした。
 祭壇にはすでに組み木があり、花が飾られていた。
 香油が周りにかけられる。
 そして、老人は慣れた手つきで松明の火を移した。
 あっという間に火が祭壇を包み込み、組み木が燃える。
「――」
 女は不意に込み上げる感情に胸を押さえた。

 こんなに呆気なく、逝ってしまうのか。
 こんなにも簡単に、弔われてしまうのか。

 昨日まで、生きていたのに。
 弱々しくとも笑い、むずがり、泣いていたのに。
 さっきまで腕の中にいた重みが、今はもうないことに胸が痛む。

 もう一度目を開いて。
 その声を、聞かせて。
 小さな手で、髪を掴んで。
 リュマ。
 リュマ。

 名前さえなかった赤ん坊を、心の中だけで、弟の名で呼ぶ。
 炎が、全てを包み込んでいく。
 浄化の炎に包まれて、今、きっとあの子は天の御使いとともに、天界へと旅立つ。
 哀しみも、苦しみもない天上の楽園へ。
 それでも。
 駆け寄って、その身体を火から抱き上げたかった。
「……」
 ふらりと前に踏み出しかけた身体を、逞しい腕が抱きすくめた。
 伸ばした手は、届かない。

 もう一度。
 もう一度だけでいい。
 ほんの一瞬でもいい。
 最後のお別れをさせて。
 その頬に、触れさせて。

 だめなら、せめて一緒に連れて行って。

「リュマ……」

 堪えきれずにもれた言葉。
 それは、どちらを呼んだのだろう。

 どちらを想って、泣いているのだろう――




 赤ん坊は、手の平にのせられる小さな箱に入れられて戻ってきた。
 女は、それをしっかりと胸に抱いた。
 帰る馬車の中でも、男は何も言わなかった。
 女も言わなかった。
 治療院に着くと、ユファが外で待っていた。
「先生……」
「リュシア、大丈夫かい?」
 ユファの声は、いつも自分を落ち着かせてくれる。
 女は箱を胸に抱いたまま、ユファに駆け寄る。
「頑張ったね――よくやったよ」
 優しく抱きしめられて、安堵する。
「つらいなら、渡しに行くのは引き受けるよ。どうする?」
「いいえ。あたしが行きます。最後まで、きちんと終わらせたいんです」
「――そうか」
 ユファが優しく身体を離す。
「じゃあ、行っといで」
 頭を下げると、女はカリナの部屋へ向かった。
 カリナは真っ赤な目をしていたが、もう泣いてはいなかった。
 女が黙って差し出した小箱を、両手で受け取る。

「ありがとう……」

 小さな小さな箱を、カリナは愛しげに頬に押し当てた。
 それは、赤ん坊の亡骸を抱きしめていた女と、同じだと、思った。



 次の日、カリナは消えていた。
 整えた寝台の上に、小さな革袋に入った金がおいてあった。
 治療代には、いささか多すぎた。
 おそらく、今までの稼ぎの全てだろう。
 動物が死期を悟って姿を消すように、カリナもまた己の死に際を誰にも見せたくなかったに違いない。
 ここに留まっていたのは、赤ん坊のためだった。
 その証拠に、女の渡した小箱だけが、消えていた。
 それ以外、カリナは何も持っては行かなかった。
「――」
 カリナには、許しなど必要ないのだ。
 すでに、死の許しが与えられているのだから。
 死にたい者にとって、これ以上の許しはあるまい。

 いつかカリナも、失われた家族と会えるといい。

 自然と、そう思えた。
 女は、金の入った包みを持ってユファを探した。
 カリナがいなくなったことを報告しなければいけない。
 診療部屋にはいなかった。
 自室だろうかと静かに診療部屋の斜め向かいの部屋へと向かう。
 扉は僅かに開いていた。
 声をかけようとしたその時、部屋から微かに酒の匂いがした。
「先生?」
 女は静かに扉を開けた。
 ユファは窓の方を向いていた。
 こちらに背を向けていても、右手に持っていた酒瓶が見えた。
「リュシア、どうした?」
 酔いを感じさせないしっかりした声が響く。
「カリナが、出て行きました。お金をおいて」
「――そうかい。まあ、そうだろうと思ったよ」
 振り返らないユファを、女は泣いているのかと思った。
「先生、どうして朝から」
「ん? ああ、酒かい? 大丈夫。酔ったりはしてない。大分昔から、いくら飲んでも酔えなくなったのさ。それでも、やりきれないときは飲んじまう。わかってて医者になったってのに、いつまでたっても慣れないもんさ」
 振り返ったユファは、泣いてはいなかった。
 微笑っていた。
 死を見続けてきた者が見せる、諦めたような笑みに、女はユファの静かで深い哀しみを垣間見た。
「先生……」
 生きることのできなかった女子ども、弱き者を、何人も何人も見送る日々。
 それは、医者として、どんな苦しみなんだろう。
 救いたいと願いながら、自分の無力さを思い知らされ、何度涙を流したのだろう。
「先生は、なぜ続けるんですか? 辛くないんですか?」
「辛いよ。でも、死を見送るだけじゃない、救う喜びも、確かにあるから、こうして続けていられるんだよ」
 ユファは酒瓶をそっと机においた。
 そして、その手をじっと見た。
 女はそんなユファをじっと見ていた。

「無力な自分にも、少しでもできることがある。全てを救うことなんてできないけれど、それでも――ってね」

「――」
 そうだ。
 全てを救うことなどできないのだ。
 誰も。
 今、痛いほどにそれを感じている。

 それでも。

 救いたいと願うことを、どうしてやめられるだろうか。



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