暁を追いかける月

 エレの家に着くと、家にはエレだけでなく、近所の女達が数人おしゃべりに花を咲かせているところだった。
「お帰り、リュシア。もしかして、エイダの所に行ってきたのかい?」
「はい。ダンも帰ってきて落ち着きました」
「まったく、大丈夫だって何度言い聞かせても、ユファを呼んでくれの一点張りで困ったもんだよ」
「お邪魔してるよ」
「お昼は食べたのかい」
 口々に話しかける女達に、丁寧に応える。
「昼ご飯は奥にとっといてあるよ。たくさん食べな。あたしらは、ちょいとエイダのとこに行ってくるから、家でのんびりおし」
 お茶の食器を片付けて、エレ達は家を出て行った。
 女は、見送った後で台所に入る。
 そして、エレに言われた通り、皿に自分の分の食事をとり、静かに昼食をとった。
 一人で居ても、寂しくなかった。
 エレの温もりが、家全体を包んでいるようだった。
 台所に並んだ、たくさんの料理。
 二人でも食べきれないそれは、残ったらユファやレノ、キリや男衆達のところに持って行かれる。
 ここでは、いつも、誰かが分け合っている。
 いつも、誰かが思い合っている。

 あたたかな人達。
 あたたかな場所。
 帰ってきたいと思わせるところ。

 ここは、そんなところだった。
 それを、男達から一時といえども失わせたのは自分だ。

 どうして、自分は誰かから奪うだけなのだろう。

 不意に泣きたくなった。
 それでも、泣けなかった。
 贅沢すぎる。
 こんなに大事にされていて、それでも不幸だと感じるなんて。

 もう出て行こう。
 これ以上、錯覚する前に。
 優しい人達に囲まれて、ずっとここにいられるなどと甘い夢を見てしまう前に。



 なんとか食事を終え、エレが残した食器と合わせて洗って片付ける。
 部屋に戻ろうとして、そう言えば湿布を貼り替えていないことを思い出した。
 治療院からこっそり持ってきた薬草を手早く準備し、盆に入れたまま部屋へ向かう。
 部屋へ入ると、盆を寝台の上に置く。そこで、
「おい」
 自分一人しかいないはずの部屋で、背後からの声に驚いて身を竦ませる。
 慌てて振り返ると、いつの間に入り込んだのか、部屋の隅に男がいた。
「傷を見せろ」
 突然の言葉に、女は戸惑う。
「え……?」
「傷を見せろと言ったんだ。熱を持っているだろう」
「どうして――」
「何度も言わせるな。傷を見せろ。服を剥がされたいのか」
 やりかねない低い声音に、女は慌てて後ろを向いた。
 背中を向けたまま、前釦を外す。
 背中に落ちる髪は左肩によせて前に流し、右肩部分をはだけると、包帯が覗く。
「それもとれ。傷を全て見せろ」
「――」
 包帯の結び目をほどくと、後は引っ張るだけでするするとほどけた。
 そうして、肩を覆っていたあて布をゆっくりと剥がす。
 左肩部分もはだけると、背中の傷は全て曝される。
 沈黙が流れた。
 傷に視線が注がれているのが、振り返らなくてもわかった。
「湿布には何を使った?」
 女が数種の薬草を答えると、
「そこに座っていろ」
 男は盆に置かれた薬草を混ぜ合わせた器を持って、一旦部屋を出て行った。
 訳がわからず、それでも、寝台に座り込んでいると、男が戻ってきたのが、背中越しに伝わった。
 いつもの湿布とは僅かに違う香りがする。
 もっとつんとする、けれど不快ではない爽やかな香りだ。
「お前が調合したものに、サヴァラという草の根をつぶして混ぜた。腫れに効く」
「サヴァラ……」
「西よりの、乾いたところでしか育たない。今度キリに教えてもらえ」
 傷口に直接塗り込まれたそれは、最初は生ぬるかったのに、すぐに熱く、ぴりぴりした感覚を与えた。
 今までとは全く違った。
 これがサヴァラの効能かと女は驚いた。
 今まで女がしていた湿布よりも数倍効きそうだ。
 丁寧に傷口に塗られ、あて布をされ、さらに包帯を巻かれる。
 一人でするのと違って、しっかりと巻かれたそれは、痛くも動き難くもなかった。
 肩口で結ばれ、終わったのかと思ったとき、
「――」
 温かなものが、左腰の、今は塞がった傷口に触れた。
 思わず、身体が揺れた。
 熱が優しく傷を辿っていく。
 必死で堪えても身体が震えてしまう。
 息をつめて、女は必死で耐えた。
 包帯で隠れるところまでたどり着いた指が、ようやく離れる。
「――服を着ていい」
 そこで、ようやく息をついた。
 慌てないように袖に腕を通し、前釦を下からはめていく。
 指が震えて、上手く止められない。
 それでも、何とか胸元まではめ終える。
 顔を上げたとき、
「――」
 胸元を押さえたままの格好で、背後から男に抱き竦められた。
「一週間後、村を離れる。今度の商売は長くかかる」
 それは、しばらくこの村には戻ってこないと言うことだ。
 その間に、自分も出て行くことになるだろう。
 安堵とともに寂寥が胸を締めつける。
「連れて行きたい。一緒に来い」
 男の言葉に、女が身を強ばらせる。
 一緒にと、男は言った。
 一瞬、どう答えるべきか迷った。
 男とともに行けば、また、あの日々が始まるのだ。
 相談できる人もなく、寄りかかれる人もなく、どこにも居場所がないと感じる日々が。
 男の情けに縋って、待つだけの、苦しいだけの日々。
 死ぬまで、繰り返すだけの日々。
 この村で暮らした後に、エレやユファの温かさに触れたその後に、また――?
 混乱していた。
 ここを出て行かなければと思う心と、ずっといたいと思う心。
 男の傍にいたいと思う心と、そうしてはいけないと思う心。
 リュマを恋しく想いながら、もう会えないことを思い知らされること。
 相反する様々な感情が、女を打ちのめす。
 苦しい。
 胸が痛くて堪らない。

「……あたしは、行けない」

 辛うじて、口にする。
「ここには置いていきたくない。俺の目の届くところにいろ。傍にいろ、それだけでいい」
 首筋に触れる唇と吐息の熱も、今は苦しみしか呼び起こさない。
「嫌よ。これ以上、あんたからも、誰からも、何も、奪いたくない」
 身を捩って逃れようとする女の腕を掴み、男はこちらを向かせた。
「俺から何を奪った?」
「――故郷を。帰る場所を!!」
 自分にはすでにない。
 だが、男にはあるのだ。
 帰る場所が。
 待っていてくれる家族が。
 仲間が。

「帰る場所なんていらん。俺は、お前がいればそれでいい」

 簡単に、そんなことをいう男が嫌だった。
「それじゃあ、あたしが嫌なのよ!!」
 叫んだ女に、男が驚く。
「だって、あたしは――」
 堪えきれない涙がこぼれる。

「――帰る場所が、欲しいもの。帰りたいと、そう思うもの……」

 居場所が欲しい。
 もう決して戻れなくても、生まれた国に、あの家に、帰りたいと今も希《こいねが》う。
 あそこは、確かな自分の居場所だった。
 母と父の思い出があり、リュマがいた。
 あそこに、帰りたいのだ。
 家族がいて幸せだった、あの頃に、帰りたかった。
 諦めてしまえたら楽になれるのに、そうしてしまうこともできない。

「あたしにはもう耐えられない。自分のためにたくさんの血を流させて、国まで滅ぼして、それでも、のうのうと生きてることに。
 あんたが救う価値もない女よ。優しくされるたびに、死にたくなるの。こんな自分に嫌気がさすわ――もうやめて、出て行かせて。もう、自由にして」

 奪うのも、奪われるのも耐えられない。
 これ以上の苦しみには、耐えて生きていくなんてできない。
「駄目だ、リュシア」
 男は女を強く抱きしめた。
 自分はエイダのように、愛しい男を抱きしめ返すことはできない。
 そうしていい女ではないと、わかっている。
「放して――」
 泣いて繰り返す女をしばらくだきしめていたが、やがて男は身体を離した。
 だが、腕を掴んだまま、女を見つめていた。
「お前は全てを自分のせいだと責めるが、そうじゃない。お前の言葉だけで、俺がただ動いたと思っているなら間違いだ。
 あれはお前の復讐だっただけじゃない。俺の復讐でもあった。
 お前が奪ったものを俺も奪い、何もかも壊してしまいたかった。それこそ、跡形もなく。
 何人殺してもよかった。国を滅ぼしてもよかった。
 お前の弟は、俺にとっても大切だったからだ」
「――」
 男は苦しげに続けた。
「リュマを弟のように愛してた。とても大切だった。
 お前は間に合わなかった。
 知らなかったからだ。
 だが、俺は間に合ったんだ。
 俺は知っていた――知っていたのに、それなのに、見過ごした。
 俺が行った時には、手遅れだった。
 もっと早くあの子のところに行っていたら救えたはずなんだ。
 リュマを殺したのはお前じゃない。見殺しにしたのは、俺のほうだ。知っていた分、お前よりひどい」
 男は女の腕を掴んでいた手から力を抜いた。
 そうして、寝台から立ち上がる。
「俺には本来お前を欲しいと言う資格はない。お前の弟を見捨てた俺には――」
 苦々しく言い捨てて、男は出て行った。
 女は男の消えたほうを見据えたまま、動けなかった。


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