暁を追いかける月
女とキリが村を出発して山を越える頃には、一時間を越える頃合いだった。
登りは、女子供とはいえ、馬に二人乗りだったために、駆けさせるわけにはいかなかった。
下りも女だけを乗せて、キリが馬の手綱を引いて行った。
ようやくなだらかな下り坂になったところで、キリはようやく馬に乗り、馬の速度を上げる。
そうして、平地になってから、キリはやっと女に話しかける。
女も、ここまで来てキリが村に戻るわけがないと踏んで、首飾りのことを話した。
キリは前に乗っているため、表情はわからないが、声は呆れているようだった。
「統領と喧嘩したから、頼み辛かったんだな」
「喧嘩なんて、してない」
「嘘だね。あのエイダの騒ぎの後ふらっといなくなって戻って来てから、統領の機嫌は下がりっぱなしさ。リュシアに会いにも来ねぇし、何かあったのは一目瞭然だろ」
「――」
「統領が嫌いなのか?」
「嫌いじゃ、ないわ。でも、あたし達は一緒にはいられないのよ」
「俺には、よくわかんねぇ。リュシアは統領が嫌いじゃねえんだろ? 統領も、リュシアが好きだぜ。それで、何で一緒にいられないって言うんだ」
女は、答えることを躊躇った。
それでも、納得がいかないキリは答えを聞くまで問い続けるのだろう。
「復讐でしか、繋がれなかったから」
「そりゃ違うだろ」
即答が返る。
「復讐だけで繋がってたんなら、終わった時点でさよならだろ? 今もこうして一緒にいるんだ。村にまで連れてきたりしない。親父様に頭を下げてまでな」
キリが肩を竦める。
「最初がどうでも、新しくはじめればいいじゃねえか。俺だって、最初はリュシアのこと嫌ってた。俺達から、統領を奪ってったと思ってたから。でも、そうじゃなかった。統領はリュシアを好きでも、それで俺達から去っていくわけじゃない。それどころか、村に戻ってきてくれたし、俺達にも優しくなった。これってリュシアのせいじゃなくて、おかげだろ?」
「……あの人は、いつでも、誰にでも優しい人よ」
「リュシアの前だからに決まってんじゃんか。統領はさ、自分一人で何でもできちゃう人だから、基本他人のことはどうでもいいんだ。もともとハラス達も連れてく気すらなかったからな。他人には半端なく容赦ねぇし、身内の俺達にだって冷たいし、失敗にも厳しい。俺達を追いかけてきてリュシアを斬った奴らも、いつもの統領なら残党残らず皆殺しってことになっただろうに、今回は、居場所突き止めただけで許しちまったんだぜ。直接手を下した奴は死んでるから、これ以上手出ししてこないんなら放っておくってさ。みんなびっくりしてたぜ」
「あたしじゃ、ないわ。それは、きっとリュマのおかげよ。あの子は、本当に優しい子だった……天使みたいに、優しい子だったから」
「――何だってそう、自分を卑下すんだ? お前、自分がいい女だって自覚、全然ないのな。先生やおっかさんや周りみんながお前をすごくかってんのに」
自分を否定され続けた二年間が、女から自信を根こそぎ奪っていった。
美しいと言われても喜べなかった。
それが原因で、虐められ、蔑まれたから。
そして、姿形の美しさは、誰も、何も救えなかった。
いっそ男に産まれていたら、皇宮に勤めに出ようとは思わなかったのに。
そうしたら、こんなことにはならなかったのに。
「お前の悪い癖だよな。悪い方悪い方へ考えんの。しかも、悪いのはどうあっても自分なんだな」
「だって、そうだから――」
「そう思った方が楽だよな。言い訳にできるもんな」
「キリ、今日は意地悪だわ」
「ああ、虐めたくもなるさ。統領が可哀想すぎて。あんないい男が、お前をいいって言ってんだぜ? 何が不満で拒むかなあ。男を焦らすのはよくねぇぞ、リュシア。統領は俺等が感動するほど我慢強いけど、そういう男ほどきれたら何するかわかんねぇからな」
「――」
キリの脅しのような言葉にも女は頷けなかった。
あの男が、自分に対して怒ったところなど見たことがないからだ。
怒っていても、それは、いつも自分のためにだった。
ただ、我慢させていたのだけは、わかる。
触れる指も、唇も、抱きしめる腕も、いつも言葉よりも雄弁に欲しいと訴えていた。
「着いたぜ」
短い言葉に、はっとして顔を上げた。
馬上から見る景色には見覚えがあった。
聳える岩壁。赤茶けた土の色。
馬が止まると、キリは軽やかに飛び降りた。
続いて女が滑り落ちるように馬から下りる。
「馬車があそこに止まってた。俺が戻ってきたときはもう統領が馬車に乗せるとこだったから、あそこらへんかな」
「キリはここにいて。馬を近づけないで」
キリが指さしてくれたところまで女は進んでいった。
岩壁に横付けされた馬車がいたと思われるところに立つ。
そこから、男が戦うのを見ていた。
男は強かった。
何人いようと負けるように見えなかった。
だが、怖かった。
男がではなく、男にそうさせている自分が。
いつも、自分は誰かのお荷物になっている。
ともに戦うこともできず、ただ、隠れているだけの、庇われるだけの役立たず。
それが、恐ろしく、苦しく、悲しかった。
だから、あの時飛び出した。
自分も、何かしたかった。
そして、そのまま死んでしまいたかった。
それが男をより苦しませると、心のどこかでわかっていたのに。
そう思うことを止められなかった。
この苦しみから、死ぬことで解放されたかったのだ。
傷ついているのは、自分だけだと思っていたから。
だが、自分より、男の方が、傷ついていたのではないだろうか。
救えるはずだったと、それなのに見捨てたと、そういう男は苦しげだった。
そう言われても、男を憎むことなどできはしない。
十分によくしてくれた。
本来、救う義理もない、知り合っただけの子供を救えなかったことで、男が苦しむ必要はないのだ。
だが、あの優しい男は、今もずっと苦しんでいる。
苦しまないでほしい。
つらい記憶は、忘れて、幸せになってほしい。
そこに自分は、いられないけれど。
「――」
女は、男が戦っていたであろうところまで進んだ。
そこには砂利と赤茶けて乾いた土があるのみ。
しゃがみ込み、手で、土に触れる。
忽ち指先は土埃で汚れる。
それでも、女は土を探った。
何度も、何度も。
大小の小石と乾いた土埃は、忽ち土煙を舞上げてしまうので、撫でるように、優しく触れていく。
ここで落としたのだから、絶対にある。
黙って、女は探した。
そうしていると、皇宮で、初めて男に会った夜のことを思い出した。
あの時も、自分は半ば諦めながら探していた。
ないはずの耳飾りを。
そうして、全てを諦めねばならなくなった。
だが、今回は違う。
諦めない。
必ずあるはずだ。
見つけてみせる。
徐々に岩壁に向かって慎重に手を這わせていく。
小さな石の感触しかしない。
あの首飾りには石の周りに蔦の細工が施してあったのだから、触ればすぐにわかる。
思い起こせる感触を頼りに、女は黙々と探し続けた。
その様子を、しばらく見ていたキリは、呆れたように息をついて近寄ってきた。
「キリ、下がっていて」
「一人より二人の方が見つけやすいだろ」
女とは反対の方向に向かって、キリも手探りで首飾りを探し始めた。
そうして、どのくらいの時間が経ったのだろうか。
女の指先が、いつもとは違う感触に触れた。
「!?」
どきりとして、指先が土を払う。
長く細い紐の感触。
編み込まれたその感触。
両の指先が左右へと触れていく。右手は、途中で途切れた。
しかし、左手は、留め具と絡みつく硬く細い感触。
女はそれを掴み、手の平にのせた。
赤茶けた土埃まみれになってはいたけれど、指で何度も擦ると、若草色の石が蔦細工の間から覗いた。
あった。
それまでの緊張が一気に解けて、女は座り込んだ。
首飾りを胸に押し当て、しっかりと抱きしめる。
男がくれたものだ。
つけていろと言った。
外すなと言った。
もう二度となくしたくなかった。
それ以外、自分には大切にできるものが何も残っていないのだ。
男がくれるものだけが、自分のものだった。
大切にしたい、ものだった。