暁を追いかける月
雇われているらしい侍女が、女の支度を手伝った。
長い髪は丁寧に洗われ、香油をすりこんで梳られた。
肌にも香油が塗られ、手触りのよい夜着を着せられる。
薄絹は胸元が大きく開いている。
裾は長いが、両脇が大きく開いていたので、あまり意味があるとは思えなかった。
用意ができると上掛けを着させられる。
迎えに来た手下の一人に先導され、二階の奥の部屋に連れて行かれる。
部屋に入ると、部屋に控えていた侍女が上掛けを脱がせ、そのまま退室する。
一連の流れはとても流暢だった。
恐らくこのようなことは初めてではないのだろう。
けばけばしい印象を与える豪奢な部屋を見回すと、天蓋付きの大きな寝台が目に入る。
自分もたくさんいた女の中の一人として、これから頭目の慰み者になるのだと思うと、ひたひたと恐怖が押し寄せてくる。
高い位置にある窓に駆け寄り開けようとするが、鍵が錆び付いてなかなか開かない。
ようやく開けて下を覗くが、ここから飛び降りるのはまず無理だ。
雨樋を伝って逃げる――それも無理だ。
焦る女の背後で、扉の開く音がする。
ぎくりとして振り返ると、酒に酔って機嫌のいい頭目が入って来るところだった。
「逃げようとしてるのか? 無駄なことを」
にやにやと笑いながら頭目は上着を脱ぎながら近づいてくる。
窓から離れ、じりじりと女は下がった。
広いとはいえ、室内だ。
ゆっくりと近寄ってくる頭目に部屋の隅まで追いつめられ、女はこれ以上下がれない。
「今まで連れてきた女の中で、お前が一番の上玉だな。こりゃ楽しみだ」
「――」
背筋が震える。
伸びてきた手をかいくぐり、脇から逃げようとしたところを腰を捕らえられて簡単に引きずられる。
「放して!!」
暴れても、女の抵抗など全く意味がなかった。
寝台に投げられるように放り出される。
柔らかな寝具に痛みはないが、乱暴な扱いに、女は咄嗟に動けなかった。
そこに、頭目がのしかかってくる。
「暴れるな。大人しくしていろ」
薄絹が引き裂かれ、胸元が露わになる。
「いやっ!」
無惨な絹を引き寄せようとしたが、手首をひとまとめに掴み上げられ、締めつけられる。
細い手首はたちまち痛みに抵抗を奪われる。
頭目は片手で自分を押さえつけ、もう片方の手は短刀を握っていた。
見せつけるようにかざされたそれは、顔のすぐ脇の寝具に突き刺さる。
「!!」
「殺されたくないなら、静かにしていろ」
締めつけられていた手首が不意に自由になり、寝具の上に力無く落ちる。
「……」
痛みと恐怖に、声が出ない。
死にたくない。
このまま死んだら、もう男に逢えない。
謝ることもできない。
大人しくしていれば、殺されることはない。
五感の全てを閉じて、ただ、黙って耐えていればいい。
あの男なら、自分を見捨てはしない。
他の男に穢されても、受け入れてくれる。
「――」
それでも――嫌だ。
濡れた舌が首筋を這い回る感触に鳥肌が立つ。
無遠慮な手が、胸を揉みしだく。
気持ち悪い。
おぞましさに叫びたいのに声が出ない。
嫌だ。
嫌だ。
自分に触れるのは、あの男でなければ。
このまま穢されるくらいなら、死んでしまいたい。
血の気が失せて冷たい指先で、女は堪えるように敷布を握りしめた。
そうして、意を決して、自分の目の前にある剥き出しの肩に噛みついた。
「っ!?」
突然の痛みに頭目は女を振り払うように上体を起こした。
「こいつ、何しやがる!!」
振り上がった手が自分を殴りつける前に、女は足で頭目の下腹を蹴った。
弱い一撃だったが、不意を突かれて、頭目の身体がさらに女から離れる。
その隙に、女は寝具に突き立てられていた短刀を両手で抜こうとした。
だが、女の力では短刀は抜けず、その間に髪を掴み上げられ、寝具に俯せに押しつけられる。
のしかかる頭目の重みと髪を引っ張られる痛みで、逃げられない。
もう駄目なのか。
絶望が女を捕らえた時、
「うっ!?」
背後から驚いたような呻き声がした。
「……?」
続いて、女の髪を引っ張る力が抜けた。
さらに、女の身体にかかっていた重みも消えた。
どさっと、重い物が寝台から落ちる気配。
恐る恐る振り返ろうとする女を、それより前に引き起こす優しい手。
この手を、知っている。
乱れた胸元をかき寄せながら、女は振り返った。
「お前は、俺の忍耐力を試しているのか?」
不機嫌なことがすぐにわかる男の低い声音に、女は泣きたいほど安堵した。
助けに来てくれた。
自分を追って、来てくれた。
だが、女のそんな喜びは表情には全く出ていなかった。
「――そんなつもりはないけれど、結果としてそういうことになったのかもしれないわ」
あくまでも感情の起伏のない言い方に、男は舌打ちしながら、寝台の下に倒れている男の背に突き立てられていた短刀を抜いた。
血のついた短刀を寝台にかかる掛け布で拭ってから鞘に収める。
問わなくても、動かない頭目はすでにこときれているのがわかる。
普段から口数の少ない男が、端から見ても不機嫌そうなのだから、相当に怒っているのだろう。
礼を言うべきなのだろうが、先ほどまでの恐怖と痛み、絶望と土壇場で救われた安堵と喜びで、女は何を言えばいいのかわからなくなった。
「キリが泣き喚いて手がつけられなかったんだぞ。これでお前が死ぬか慰み者にされてたらキリは自分を責めるだろう。間に合ったからいいようなものの、二度とこんなことはするな」
その言葉に、女はほっとした。
キリは無事に男のもとへ戻ったのだ。
だが、そんな女の様子が、男には気にくわなかったのか、女の顎を掴んで自分の方を向かせた。
「わかったのか? 二度と、俺がいない間に勝手によそへ行くな。他の男に触れさせるようなこともするな」
乱暴な問いに、女は思わず問い返す。
「他の男に触れられたあたしでは嫌なの?」
「ああ、嫌だ」
即答に、女の瞳が一瞬揺らいだ。
それを確認してから男は言葉を続ける。
「他の男が触れたなら、もう一度、俺のものだという印をつけなおす」
言うなり、男は荒々しく女の唇を、己れの唇で塞いだ。
舌を差し入れ、絡み合わせ、貪るように求める。
容赦のないくちづけだった。
抗うことさえできない。
抗いたくない自分に、すでに女は気づいていた。
「俺の許しもなくお前に触れた男はそこに転がっている奴のようになる。リュシア、この男以外、お前に触れたか?」
女は男の荒々しい扱いに息を乱していたが、辛うじて首を横に振った。
「では、どこに触れた? 触れられたところを全部言え」
答えを聞く前に、男は女を寝台に引き倒し、首筋や引き裂かれた服からのぞく胸元の白い肌に己れの印をつけていった。
先ほどとは全く違う甘い疼きが女の内に沸き上がる。
「待って、お願い……!」
「もう待たん、そう決めた」
柔らかな肌を唇で辿りながら男は続ける。
「待ったあげくがこれだ。ここに来るまで、生きているお前を見るまで、生きた心地もしなかった。お前は自分がどうなろうと気にしないだろうが、俺はお前を死なせないし、他の誰にも触れさせたくない」
熱のこもった男の言葉に、胸が熱くなる。
こんなにも想われている。
それが嬉しかった。
「あたしも、嫌だった」
小さな声に、男の動きが止まる。
「あたしに触れるのは、あんた以外の男では嫌だった。だから、必死で抗ったわ」
首筋に触れる熱い吐息を、逃さぬように腕を上げて男にしがみつく。
「だからこそ、ここでは嫌。ここではなく、もっとずっと二人だけでいられるところで、あたしをあんたのものにして」
闇に紛れて姿を消した二人に、気づく者は誰もいなかった。