暁を追いかける月

「キリ、飯を食え」
「いらねえ」
「じゃあ、茶でも飲め」
「いらねえ」
「せめて、寝ろ。統領が戻ってきたら起こしてやるから」
「眠くねえ」

 すでに太陽が昇り、南の空に近づいても、屋敷の扉の前に座り込んだままキリは膝を抱えて門をみすえている。
 ジルとロスが宥めて何とか休ませようとしているが、全く動こうとしない。
 昨日、女がキリを隠し棚に押し込めて連れ去られた後、キリは隠しておいた馬に飛び乗り全速力で村への道のりを駆けた。
 村を出る前に、ジルとロスには男への伝言を頼んでいた。
 上手く伝わっていれば、男は必ず村に戻っているはずだった。
 だが、男はキリが屋敷を飛び出す前にすでに商談をレノに任せ、ジルとロスとともにこちらへ向かっていた。
 闇が濃くなりつつある山を越える道すがら、キリは男と合流し、事情を説明しながら再び屋敷へと駆け戻った。
 男はすれ違わぬようにと迂回路から向かわせたジルとロスをここで待つようにと言い置いて女を救けに向かった。
 一時間後、ジルとロスが屋敷へ着き、さらに夜更けに男衆達が屋敷へとやってきた。
 ジルとロスから話を聞いた男衆のさらに半分が男を追ったが、見つけられずに戻ってきていた。
 連れていかれたと思われる街の外れの屋敷は、早朝だというのに人っ子一人いなかったと戻ってきた連中が言っていた。
 かなり慌てて出て行ったようで、金目のものだけが荒らされたように無くなっていたらしい。
 一番奥の豪奢な部屋は寝台からすぐの床に血だまりを拭った跡があり、それが誰のものかまではわからなかった。
 街も別段騒がしい様子もなく、警邏が動いている様子もなかったという。
 では、連れ去られた女と救けにいった男は何処に消えたのか。
 男衆達は、男の強さを知っている。
 キリも知っている。
 だが、夜明けを過ぎても戻らない二人のことを考えると、どうしてもキリの想像は悪い方へと向かう。

 床にあった血が、リュシアのものだったら。
 もしも統領が着く前に、殺されていたら。
 生きていても、男達に慰み者にされていたら。
 どう償えばいい――?

 キリの不安ほどではないが、男衆達もまた動揺していた。
 自分達の仕事は承知していた。
 今回の取引が少々危ない相手と対立することになるのも。
 だが、そのとばっちりが女に来るとは思ってもいなかった。
 男衆達も皆女を大切に思っていただけに、キリの不安がよくわかる。
 無事ならとっくに戻っても言い頃だった。
「キリ、中で休め。統領は必ず戻ってくる」
 見かねたハラスがキリを抱え上げようと腕を掴む。
 キリはそれを思い切り振り払って、ハラスを睨みつける。
「ここで待ってろって、統領が言ったんだ!!」
 叫んで、キリは膝に顔を押しつけた。
 統領は必ず救けると言ってくれた。
 だから、大丈夫だ。
 何度も自分に言い聞かせる。
 それでも、不安は隠せない。
 切れるほどに噛みしめた唇の痛みさえ、不安を消してはくれなかった。
 その時、門の外で様子を窺っていたセオが叫んだ。

「キリ、馬が来た!! 姐さんと統領だ!!」

 その言葉に、がばっとキリが顔を上げる。
「――」
 じっと耳を澄ます。
 徐々に近づいてくる蹄の音。
 キリの耳は馬の蹄の音さえ見分けられる。
 それは、確かに男が乗っていった馬の蹄の音だった。
 大きく開かれた門の前に止まった馬には、待ち望んでいた二人の姿が。

「リュシア!」

 まろぶようにかけてきて、キリは女にしがみついた。
 そして、声を上げて泣き出した。
「ごめん、ごめんな、リュシア……」
 女にしがみついて泣きわめくキリは、年相応の子供に見えて、女は優しく抱きしめ返した。
「どうして謝るの?」
「俺のせいで、俺が、ここに連れてきたから――」
 キリが顔を上げると、女はその頬に流れる涙を指で優しく拭ってやる。

「いいえ。あんたはよくやってくれたわ。あたしは無事よ。ちゃんと伝えてくれてありがとう」

 そう言う女は、今までキリが見た中で、一番美しかった。
 なぜなら、笑っていたのだから。
「――」
 微笑む女を見て、キリの涙はすっかりひっこんでしまったようだ。
 ぽかんと口を開けて女を見ている。
 そして、それを見ていた男衆達も唖然として女を見つめていた。
 自分達が見たものが信じられず、呆然としながらも横にいる仲間同士、互いに腕をつねり合ったり、髭を引っ張ったりと、痛みで確かめる。

 それから。

 ものすごい雄叫びが辺りを震わせた。

「――姐さんが、笑ってるぜ!」
「真っ昼間っから俺達、幻覚見たんじゃねえよな?」
「いや、確かに見た。絶対に見た!」
「何したんだ、統領!?」
「どうやったんだ? 本物の姐さんか?」
「偽物じゃねえのか?」
「酔ってんじゃねえのか!? それとも俺達の酒が抜けてねえのか?」

 男衆の慌てふためく様を面白がるように、男と女は視線を交わした。
 男が徐に告げる。
「さあ、帰るぞ」
 その言葉に、暫し呆気にとられた男衆だったが、俄に活気づいた。

「そうだ、帰ろう!」
「帰ったら祝言の準備だ、そういうことなんだろ、統領」
「統領ばんざい! 姐さん、ばんざい!」
「いよいよか」

 騒ぐ男衆をよそに、男は女を馬に乗せ、自らもひらりと跨った。
 キリを含めた男衆達が次々と馬に乗る。

「行くぞ!」
「おう!」

 たくさんの蹄の音が、雲一つ無い青空の下、颯爽と駆けていく。

 帰るべき場所へ。



 そして、病んだ月は、もう何処にもなかった。






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