暁を追いかける月
7 身代わり
食事は、あっという間に終わった。
木の杯を洗ったら、もう、後はすることもなかった。
「潮時だ、引き上げるぞ」
「おう!!」
男衆達が一斉に動き出す。
誰が何をすればいいのか心得ているらしく、あっという間に屋敷からいなくなる。
「リュシア、キリと一緒に馬車に乗れ」
「わかったわ」
女は最後に一度だけ振り返った。
つかの間の家だった。
もう戻ることもないだろう。
どこにも、留まれないのだと改めて自覚した。
扉が閉まる音は、ひどく寂しく聞こえた。
慌ただしく屋敷を後にする。
男と、男衆達のほとんどが馬に乗っていた。
セオとテトが幌のついた馬車の手綱を取っている。
馬車が向かう先が、西だと、辛うじてわかる。
まだ地平よりは高いところにある太陽が、それを教えていた。
「キリ、何処へ行くの?」
「さあ、着けばわかるさ」
簡単に、キリが言う。
本当に知らないらしい。
しかも、それを全く不安がることもない。
「村に戻りたいと、思わないの?」
問われて、心底不思議そうに問い返す。
「なんで、思うんだ?」
これには、女の方が驚く。
どうもキリと意思の疎通ができない。
「俺達は、もともと流れ者の集まりなんだ。別に、必ず定住したいわけじゃない。定住したのは、統領の親父様だ。流れ者の俺達の帰る場所を作ってくれた。でも、それは永遠にじゃない。困ったときに頼れる場所があるようにって。何かあったときの保険ってやつだ」
訝しげな女の顔に、キリは思い出したように笑った。
「俺が最初に言ったのは、ちょっとした腹いせだから気にしなくていい。統領は別に掟を破ったせいで村を追い出されたわけじゃない。自分から、出て行ったんだ。するべき事があるから、縁を切ってほしいって。ホントは一人で出てくはずだったのに、あいつらが勝手に一緒に出てきたのさ。統領のことが、大好きだから。俺も行きたいって言ったのに、まだ子どもだから駄目だって言われてめちゃめちゃ怒ったら、十三になったらいい、って統領が言ってくれた。だから、十三になるまで待ったのに、そっから梨の礫だったから、金を届けに来たレノのあと、こっそりつけて居場所を突き止めたんだ。統領が来るまで隠れてようと思ってさ。でも、いざ統領が戻ってきても出にくいし。見つかった時は、格好悪いし、腹も減ってたし、疲れてたから八つ当たりしたんだ」
キリが笑って舌を出す。
「――村の掟って、何なの」
女が問うと、一瞬言っていいかと考え込むも、キリはあっさり告げた。
「盗むな、犯すな、関わるな」
女の顔がさらに訝しげになる。
最初の二つはわかる。
だが。
「関わるなって、何に?」
「権力や、国政に関わるような大事にさ。統領の親父様はそう言ったものに関われば、決して最後はいい結果にならないからって」
「――」
「だから、ホントは統領は村に帰れないわけじゃないし、帰りたいとも思ってないぜ。もともと今みたいに商売しながら移動すんのが好きなのさ。狭い村に収まるような器じゃねえしな」
言い終わると、キリはごろんと馬車に寝転がる。
「――」
キリはそう言ったものの、女の気は晴れなかった。
結局、復讐のために村を出たことには変わりはない。
家を、捨てさせた。
それが、苦しくて、申し訳ないのだ。
いるべき場所を、帰るべき場所を、失ったままさまよい続けることの虚しさを、幼いキリはまだわからないだろう。
愛すべき者が、まだ残っているから。
帰るべき場所が、まだあるから。
いつか帰れるという安心感があるから、人は旅立っていけるのだ。
「――」
自分でも不思議に思う。
ひどい扱いを受けているわけではない。
寧ろ、これ以上ないほどの上等な扱いだ。
身寄りのない女が、下手をすれば慰み者にされるか、売春宿に売られたって文句も言えないのに、男達はとてもよくしてくれている。
それでも。
死んでしまいたいと思うことを止められない。
この虚ろな心を、埋める術がわからない――
がたん、と馬車が大きく揺れ、女の身体が前方へ傾いだ。
それから、馬車の速度がぐんと上がった。
「!?」
キリが飛び起きる。
幌の前の開き窓からセオとテトに叫ぶ。
「なんだよ、いきなり!?」
「誰かが追ってくる。舌噛まねえようにしろ!!」
キリが傍らに置いてあった剣を取る。
「キリ!!」
「大丈夫だ、統領達が何とかしてくれる!!」
車輪の音が、怒鳴らなければならないほど激しくなる。
すでに日は傾いている。
幌の隙間から差し込む光は赤かった。
暗くなれば不利になる。
男達はそう判断して、この先の開けた場所で迎え撃つことにした。
切り立つ岩壁に馬車を横付けし、囲んで守れば背後は気にしなくても良くなる。
馬車の背後に回ると、キリが顔を出している。
「統領!!」
その目が、期待に輝いている。
「馬をくれ! 蹴散らしてやる!!」
「セオと行け。無茶はするな」
「おう!!」
馬を下りると、代わりにキリが飛び乗った。
そのまま、水を得た魚のように軽々と馬を操り、セオとともに駆けていく。
馬上で戦うなら、キリの独壇場だ。
恐ろしいほどに人馬一体となって、敵を翻弄するだろう。
馬車に視線を移すと、女と目が合った。
顔色が悪い。
脅えているのだろう。
「馬車から出るなよ。すぐ終わる。顔も出すな」
短く言って、男は迫ってきた襲撃者達を迎え撃つ。
近くには男衆達もいる。
心配することなどなにもなかった。
四人同時にかかってきても、大きな体躯に似合わぬ素早さで相手の懐に入り、喉を掻き切る。
一人が倒れる前に、二人目の胴をなぎ払い、そのまま身体をひねって三人目の脇腹を斜め上に斬り上げ、返す刀で四人目を袈裟切りにする。
あまりにも速い動きに、男を囲む敵の動きが止まる。
男はそれを見逃さず、自分から仕掛けた。
数に不足はなかろうが、男の相手ではなかった。
大剣を振るうまでもない。
粗方倒したところで、ふと馬車に視線を向けると、女の顔が見えた。
顔を出すなと言ったのに。
怒鳴ろうとして、だが、女の顔を見て、ぎくりとする。
女は、今にも泣きそうな顔をしていた。
傷ついた顔を、していた。
その顔を、男は前にも見た。
あの夜、男を拒んだ時と同じ顔だった。
なぜ、今そんな顔をするのか。
「――」
次の瞬間、女が驚いたように目を見開いた。
「統領!!」
ハラスの声が聞こえた。
男の右手が、いきなり横に引かれた。
咄嗟に目をやると、手首に鞭が巻き付いていた。
巻き付いた鞭が、男の動きをつかの間止めた。
男の背後に剣を振りかぶる姿を見た時、考えるより先に女が動いた。
勢いをつけて馬車から飛び降りる。
男はそう離れたところにはいなかった。
走りながらキリからもらった短刀を抜き、男の動きをとどめる鞭を切った。
そして、そのまま男の腕にしがみついた。
男が驚いて女ごと腕を引き寄せる。
振りかぶった剣が下ろされる。
とっさに左手に持ち替えた剣で、男が背後の敵の胸を刺す。
ほとんど同時に、駆け寄ったハラスの剣が敵の背中を切りつける。
その全てが、あっという間の出来事だった。
「リュシア!!」
「姐さん!!」
柔らかな肉を切る感触が、男の腕から伝わった。
だが、切られたのは自分ではない。
敵が倒れる音を聞いた。
それから、自分にしがみついた女の身体から力が抜けていく。
恐ろしいほどの沈黙。
抱き寄せたその背は、深紅に染まっていた。
男衆が最後の一人を倒した時、すでに男は動いていた。
「統領!!」
「酒と絹を持ってこい!」
女の背から血でまとわりついた髪をよけ、切られた背中の布地をさらに引き裂いた。
肩口から斜めに切られた女の傷跡は今も流れる血であふれかえるようだった。
「統領、これを」
栓を抜いた酒の瓶が渡される。容赦なく女の傷へかけた。
その衝撃に、女はびくりと背を振るわせた。
二本目の瓶が空になるころ、すでに女の意識は朧気だった。
男は絹で傷を覆うと、細く切られた別の絹で、身体を巻いた。
「キリ、レノと先に行け。村に戻る。医者を呼べ」
朦朧とする意識の中、焼けるような背中の痛みに、女は安堵していた。
自分は、まだ生きているのだと感じた。
この痛みが、現実と自分を繋いでいる――そう強く感じた。
痛いのに、ひどく嬉しかった。
男は死ななかった。
怪我もしていない。
代わりに、自分が死ぬのだ。
これで、楽になれる。
「リュシア。お前は死なない」
すぐ耳元で、男の声がする。
抱きしめてくれる腕の強さが、心地よかった。
死なせて。もういい。これ以上、生きていたくない。
「死なせない。俺の代わりに死ぬなんて許さない」