エゴイスト・マージ
何故その場所に行ったのか、
どういう経緯だったのかも今も分りません。
廃墟の屋上には娘が倒れていて、
柵が外れたその階下には、
かつて息子だった男が……
娘はそれから一ヶ月ほど
意識がありませんでした。
やっと意識が回復したときあの子は」
この時、母親が微かだが
薄く笑ったように俺には見えた。
「それまでの記憶を失くしていました。
不思議なことに義兄の事のみ一切です。
その存在の全てを。
不慮の事故とはいえ、
色々と不審な点も多く連日刑事さんが取調べや
現場検証に訪れましたが結局、一番身近にいた
幼い雨音がそんな様子だった為、
詳しいことは分らずじまい。
結局は事故ということで落ち着き
やがて捜査も打ち切りになりました。
義母としてこんな事言ってはいけないのでしょうが、
私にはそれが事故だったかどうかは
如何でもいいことでした。
終わったんです、娘を苦しめる全ての事が。
当時の主人には何も言えませんでした。
あの人はとてもいい人で、子供たちを大変
可愛がっていましたから。
私が離婚の申し出をした時、理由を聞かれましたが
頑なに訳を言わない私に
主人なりに察してくれたのでしょう。
結局それ以上何も聞かずに判を押してくれました。
主人は家族思いで私達を大事にしてくれました。
だからこそ、一緒にいれば、
きっと折に触れ家族であった
あの男の話題もあがることでしょう。
でも、運良く忘れた娘に
何故またその名前を聞かせる必要があるでしょうか?
……夫には罪は無く、そして又娘も然りなのです。
私だけが知っていて、罪を被ればいい、
それだけのことです。
今もやはりそれで良かったのだと思っています」
淡々と話す月島の母親の横顔をみて
この人もまた娘と同じ足枷を
今尚、引き摺っているのだと感じた。
月島にとってあのクリニックの存在。
治す為の催眠療法だと思っていたのはフェイクで
その実、緒方が施していたのは記憶封印、そして
思い出させない為の監視役だったのだと考えた。
帰り際、母親は俺を玄関まで見送ってくれた。
「娘の話題はいつも貴方のことばかり。
あの子があんな風に笑うのを見たのは
何年振りでしょうか。
初めて会うのに懐かしい気がしました。
三塚先生、娘をお願い致します」
笑顔こそなかったが、深々と頭を垂れての
口調からは、たった一人で
背負ってきた荷を僅かだが降ろせたように
感じたのは、単に俺の思い込みではないだろう。
恐らくは、月島が俺の事を
色々と話していたことで、
初対面に関わらず口を開く気になった……
いや、違うな。
あの母親も賭けたのかもしれない。
ともすれば取り返しのつかなくなる
だろう事実を話すことを。
そうしてまでも、過去に引き摺られ留まる我が子を
未来へ歩かせる為……俺を利用することを選んだ。
それを贖罪だとは思わない。
母親の母親たる所以だと
この俺が思うのは可笑しなことだろうか?
「……にしても、
一体何の話をしてるんだアイツは」
日差しの強さや生温かな風が変わらなくても
夕刻を示す時計の針を確認した頃、
オレは月島の家を後にした。
道すがら、月島の母親を思い出し
次第にその母親を通しつつも
俺は別の事を考えていた。
その時、ふいに頭に去来したモノの輪郭を
ハッキリさせたくなくてかぶりを払った。
「くそ、今日はやけに暑いな」