赤いスイートピー
「チエミ、ちょっと見てみる?」

暑い夏のある夜、柏田の作った冷やし中華を食べたあとで、彼はチエミに数枚の絵を見せた。

外国の街並みが描かれた水彩画だった。

カフェの店先や教会のある風景。

セーヌ川に浮かぶ小さな船、高台から臨むエッフェル塔のある街…

「学生の時、一年パリで遊学してたんだ。」

「留学?」

「遊学だよ。遊びに行ってたんだよ。なけなしの貯金はたいてね。絵は毎日描いてたけど」

透明感のある色で描かれたパリの風景は女性的で繊細だった。

「慶らしい絵だね。」

「この頃は本気で画家になるって思ってた。」

「なんで先生になったの?」

無邪気にチエミがきいた。

「母親養う為。父親が女と逃げたから。俺が大学三年の時。」

柏田は絵を片付けながら言った。

「お母さんはどこにいるの?」

チエミの問いに一瞬、柏田の表情が歪む。

「ショックで正気じゃなくなって、死んだよ。」

あまりのことにチエミは言葉を失なった。
しばらく沈黙が続いた。


柏田はごめんね…といいかけたチエミの身体を引き寄せ、強く抱きしめた。


柏田の腕の中で、チエミは感じる。

(慶も私と同じだ…)

柏田の背中に回した自分の腕に、精一杯の力を込めた。




土曜日の午前10時。

チエミが玄関のドアを開けると、暖房の温かさと共に煮込み料理の匂いがした。


「あー寒かったあ。今日はすっごく寒いよお。」

マフラーを取りながら、リビングのドアを開け、中にいる柏田に尋ねた。


「慶、何作ったの?すごくいいにおい。」

柏田はソファーに座り、雑誌を読んでいた。

「あぁ、ボルシチ作ったんだ。昼メシにしようと思ってさ。」

「ボルシチって何?」


チエミはボルシチを食べたことがなかった。
柏田は、ロシアの家庭料理だ、と答えた。


そろそろ付き合い始めて一年経とうかという頃だった。


ボルシチを食べながら、柏田はチエミを西伊豆の旅行に誘った。


「文化祭の振替休日で土日が連休だから、ちょうどいいよ。もうすぐチエミの誕生日だし、お祝いで行こうよ。」


チエミの十七歳の誕生日が近づいていた。

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