猫と宝石トリロジー①サファイアの真実
そろそろ終業時間なのかエレベーターから帰宅する人たちがパラパラと出てきている。
美桜は腕時計を見る振りをしながら、少し落ち着かない様子で周りを見渡した。
大丈夫、知り合いはいない。
この人にはまだ自分が ASOの人間だって知られたくない。
「突然お伺いしてごめんなさい。 大事なお時間を取らせてしまった事も謝ります」
「かまわないよ」
「ありがとうございました」
そう言うと今度は彼女が絢士の前に手を出した。
「ん?俺の名刺は渡したよね?」
「商談成立の握手ですわ」
にっこり笑って俺の手をとりながら、彼女は小さな声で囁いた。
「受付の女性が誤解してると思うの」
ほっそりした手の感触を楽しむまもなく離され、名残惜しさを感じながら絢士は苦笑いした。
「誤解だと思うけど?」
「彼女の独りよがりにしては素晴らしい応対だったわ」
「何か言われたのか?!」
会社の女子社員達が自分をどう言っているかは知っている。
クールで仕事ができてルックスがいい。
将来重要なポストにつくのは間違いない
ー社内で結婚したい男ナンバー1ー
馬鹿らしい、そんな称号はいらない。
たとえ最下位だろうと、頭の中から鈴の音がする女性と将来を考えるつもりはないし、今のところ目の前の女性以上に気になる人はいない。
「君に酷い事をいったのなら……」
受付の方を睨む絢士に美桜は慌てた。
「何も言われてないです」
「俺と彼女は何の関係もない」
「わかりました」
美桜はこちらの様子をずっと伺っていた受付嬢に軽く会釈する。
「それではご連絡お待ちしています」
美桜は立ち上がり、彼の態度と自分の中に芽生えつつある思いに戸惑い逃げる様にその場から去った。
途中、彼が自分を見ていることはわかったが、
振り返るという危険は冒さなかった。
さっきの懇願していた時とはあまりにかけ離れたあっさりした態度に、絢士は呆然として彼女を見送った。
おいおい……
どうやら俺は宝探し中に難攻不落のお姫様を見けてしまったみたいだな。
絢士は軽く息をつくと、美桜の名刺を大切に胸ポケットの中にしまった。
デスクに戻るエレベーターの中で、彼女とのやり取りを思い返して自分がにやにや笑っている事には気づかなかった。
「おい、どうした?!」
同僚に目の前で手を振られ、神宮寺は頭を振り正気に戻った。
「室長にいい事があったらしい」
「はっ?!」
「いや、なんでもない……」
エレベーターで、途中乗り合わせた尊敬する上司の思わぬ……いや、想像すらしたことのなかった表情を、
神宮寺はしばらく忘れる事ができなかった。