猫と宝石トリロジー①サファイアの真実
「まだこんな時間だし」
彼の視線を追って見た壁のアンティーク時計は三時を少し過ぎたところ。
「今日は健全なデートをしよう」
「健全?」
「期待されてると知ってて、俺が流されたり弱ってる所に付け入ったりしないのは証明済だろ」
何のこと?と考えてすぐに、先日の夜に思い当たった。
「私、そんなつもりでは……」
優しく頬に両手を当てられて勢いが削がれていく。
「絢士さん?」
無言の彼に上向かされて正面から視線を受け止めた。
心臓が痛いくらいにドキドキと、早鐘のように胸を打ち始める。
少し不安になって、美桜はもう一度彼の名前を呼んだ。
「絢士さん?」
「みおう」
その瞬間、ぎゅっと心臓に甘い痛みが走った。
低い彼の声は想像していたよりも遥かに甘く美桜を痺れさせた。
もし過去に戻れるのなら『どんな感じかしら?』なんて気楽に想像していた自分に『そんな甘いものじゃないわよ!』って教えてあげたい。
「もう教えてくれてもいいだろ?」
「なにを?」
「みおう、漢字はどう書くんだ?』
「美しい桜よ、家は代々名前に花の名前の漢字を使うの」
まるで魔法にかかったように言葉がすらすらと口からこぼれていく。
「美しい桜で美桜か。うん、良い名前だ」
「ありがとう」
今まで大して気にしていなかったのにそう思えてしまうから、この人は本当に何か魔法を使っているのかも知れないなんて考えてしまう。
「あれ?それだと二番目のお兄さんはどんな漢字になるんだ?」
「陽人には特別な事情があるの」
「なるほどね、彼は産まれた時から変わってたんだな」
その事は周知の事実で、笑い話になる事が多いのだけれど、オババにしてみたらそれすらも愚か者の理由になる。
あの人にとっては、自分以外の全ての人が愚か者になるのよ。
「ごめん、お兄さんを悪く言うつもりじゃなかった」
眉間を親指で撫でられて、自分が険しい顔をしていたのだと気づく。
「違う。いいの、それは皆が思っていることだから」
「でも身内を悪く言われたらいい気はしないよ、だからごめん。それに俺、お兄さん嫌いじゃない、飾らないのがカッコいいって思ったよ。本人の前では絶対言うつもりはないけどねって、美桜?」
ささくれた気持ちがなだめられて、傷口が癒えるように、心が優しく包まれていく。
戸惑う彼にぎゅーっと強く抱きついた。
この人を好きにならずにいられない。
「絢士さんはずるい」
「なにが?」
「本当は意地悪だし、でも好き…あなたの事が大好き」
絢士は彼女を強く抱き締め返した。
「それは俺の彼女になるってことだよな」
美桜が腕の中でうなずくと、身体を少し離されてさっきと同じように甘い瞳に見つめられる。
「俺はとっくに大好きだ」
「そういうのがずるい」
笑いながら受け止めた唇は、温かくて優しくて、自然と涙がこぼれだす。
「美桜の方がずるいだろ」
優しい指で涙を拭いながら彼が苦笑いした。
「どうして?」
「そんな顔されると期待に応えたくなる。俺を試してるのか?」
「そんなことないです」
「わかってる、俺が自分で自分の首を絞めてるだけだから。今日は健全なデート!早く支度をして!間に合わなくなる」
「はい」
どこへ行くの?とも聞けず、背中を押されて美桜は慌てて奥へ鞄を取りに行った。