猫と宝石トリロジー①サファイアの真実
「お仕事帰りではなさそうですね?」
彼女は僅かに眉間にしわを寄せ考える素振りをしている。絢士は彼女の言葉の意味に口元が綻んだ。
この俺がホストに見えるのか?
光栄に思うべきかな。
「これからお仕事ですよね?」
愛らしく見える、問い詰めるような彼女の視線の先を一緒に追う。
アンティークの掛け時計の短針は、アラビア数字の8を指している。
「はっ?嘘だろう?!」
この店に入ってから30分が経とうとしている。
そんなに長くこの絵を見ていたのか?
急いで行かなければ間に合わないかも知れない。
絢士が慌てて入口に向かうと彼女もついてくる。
「あの絵は売り物ではないです」
「わかってる」
絢士は立ち止まり振り返らずに言った。
気づいていたさ。
店の奥……
しかも店主から一番見やすい壁に大切に掛けられていたあの絵は売る気のないものだと。
ほんの僅かな時間 躊躇ってから振り返った。
「実はこの絵とよく似た絵を持っているんだ」
絢士は後で会議室に入りながら、なぜ急いでいたのにその事を彼女に教えてしまったのだろうと、不思議に思った。
彼女は小首をかしげ考え込むように視線を床に落とした。表情を見られたくないようだ。
「本当に?」
「ああ。特に猫の模様なんかそっくりだよ」
彼女はハッとして顔を上げると、絢士の顔をまじまじと見てきた。
「あの、失礼ですがその絵はどちらで?」
「さあ?」
「さあって……あっ、」
絢士の胸ポケットの携帯が鳴った。
とらなくても誰からなのかはわかる。
神宮寺が資料を抱えて慌てている様子が目に浮かんだ。
「まずい」
慌てて店を出ると彼女が飛び出してきた。
「あの!!!
もしよければ、お名刺などいただけませんか?」
振り返った絢士の眉が片方上がる。
どちらかと言えば願ってもない申し出だが、最近の周りの雑音が絢士の女性に対する警戒心を呼ぶ。
彼女を見ると、自分の言ったことの意味には気づいていないようだ。
いや、そうじゃない。
おまえは何を自惚れてるだと、絢士は自分に笑ってしまった。
ポケットに手を入れようとすると、彼女が突然はじけたように笑い出した。
「いやだわ、私ったらごめんなさい。絵の事をもう少しお話したくて。よろしければまたお店に来ていただけませんか?」
もちろん、言われなくてもまた来るつもりだった。
まだ宝探しは終わっていない。
「朝からナンパされると思わなかったよ」
絢士はここ最近見せたことのない心からの笑顔で彼女に名刺を渡し、全速力で大通りへと駆け出した。