君がいるから


 知らぬ間に視界が歪んで頬に伝って落ちた雫が、大理石の床に1つ2つと跡を残す。次第に嗚咽交じりに息が漏れ始めた時、内に隠していた想いが一気に溢れ出た。

「ただ家に帰りたいだけ!! それだ……け……なのにっ」

「落ち着けっ」

「離して!! どうしてっ!?」

 ただ黙って見据えているだけのお爺さん達から、私の腕を掴んで離さない男に視線を移し睨みつける。

「私は何もしてない!! ただ……アディルさんに待っているようにってあの部屋にいただけ…」

「話は聞いてやる。だから落ち着け」

「もう離して!! どうして! どうして誰もっ」

 自分でも何を言っているのかさえ判断がつかないまま、ただ言葉を放ち続けながら、男の手から逃げ出そうと必死でどんなに足掻いても全然微動だにしない。
 その拍子に、指にあった輪がスルッと抜け落ちる感覚に動きを止める。

 ――カツーンッ。

 私の指からすり抜け落ちた小さな輪は、微かに音をたてて私の横を通り過ぎ行き遠ざかっていく。
 呆然と眺めていた行く先に、いつからその場にいたのか分からない――あの冷たい瞳の男の足の爪先に当たり止まった。男がその指輪に気づき、長い指先が拾い上げようとする。

「それに触らないで!!」

 ざわつく空気の中、私の怒鳴り声が辺り一体に響き渡った。自分でも一瞬驚いてしまうぐらいだったけれど、母さんの形見を誰にも触って欲しくなんてなかった。
 今まで力強く握り締めていた手からふいに力が緩み、その隙に彼の手から抜け出し、指輪を拾い上げ力なく座り込む。

「……母…さん、助けて……」

 指輪を両手でしっかりと握り締め呟き、涙がとめどなく流れ続けた。

「これは、一体何の騒ぎだ」

 頭上から声がし見上げると、さっきまでテーブルの中央に座っていた筈のおじいさんが目前に。
 そこへ――。

「あきな!!」

 聞き覚えのある声が背後から聞こえたかと思えば、すぐに傍らから甘い香り。ゆっくりと視線を横へ移動させると、膝を床に着き眉を下げ心配気に見つめるアディルさんの姿が。

「ア……アディル……さん?」

「あきな! 大丈夫か!?」

 安心させてくれる優しい声音に、涙が余計に溢れ出てきてしまう。
 そして、アディルさんの香りがより近くに感じ、トクントクンって音が耳元で聞こえ、後頭部に感じる温もり。

「……もう大丈夫だから。俺がいるから安心して」

(あっ……たか……いなぁ……)

 その温もりに身を委ねるようにして、静かに瞼を閉じた――。

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