くだらない短編集
地獄花
ペルセポネはザクロを食べてしまった。それが原因で、ペルセポネは地獄へ属することになって了ったのだ。淡紅色の、妖艶な華。地獄に咲く甘美な誘惑。食すれば地獄が待っている。其れでも、手を伸ばしてしまうのだ。
(だからきっと、己も)
ルーアンは黒色に染めた髪を空色の風に靡かせながら、黒で固められたスーツ姿で独り丘陵の上に立っていた。その手元には、白色の華。名前は知らない。ただ真白いだけの高潔な華。眼前で眠る男を見ながら、追懐するルーアンの頭を占めるのは、ザクロの様であると言われた主人の姿であった。
■地獄花
人間と妖怪・魔物は一つの世界に存在していた。都会を歩く人間に混じって息を潜めて生存する彼等を、人間達は容赦なく差別した。
主である明(みょう)の口癖は、もう直ぐ幸せになれるんだ、だったと思う。何千もの人間を殺戮し、何千もの都市を焼き払った異形優性論を唱える軍団の頭首である主は気紛れな妖怪であった。どれ程に忠誠を誓約しようとも、明は自身の気分によって、何人もの部下の首を跳ねた。それでも、ルーアンは常に緊張の糸を張る、そんな空気が好きだった。
「ねえ、ルーアン」
「何ですか」
歳を感じさせない艶やかな声が、漆黒で統一された広い室内に響く。紅の注した目元は、歴史の中に出てくる歌舞伎役者を彷彿とさせ、それが、かの有名な御方の“我々は舞台上の役者でしかない”という言葉を体現しているようで酷く滑稽だった。
「君は、僕が、殺されると思うかな。御伽噺の様な正義によって」
広い室内の奥に位置する机に腰掛ける彼が、部屋の中央で姿勢良く待つルーアンに、笑みを崩さず問いかけた。疑問符の付いていない問い掛けに、ルーアンは口を開いた。
「貴方は、幸せに為れましたか」と。
繋がらない会話に、異論を唱える者は此処には存在しない。彼等の中では会話の流れは一つであり、また、二つである。答えの分かりきっている問に、素直に返答する必要性はないのだ。明は満足気にチェシャ猫如く微笑む。
「でも安心して。僕が死んでも“他の世界”ではきっと、僕達は幸せになれるんだ」
静かな湖面の様に純粋に何も映さない虹彩に、誰も意思を見出したことなど無かった。けれど、とルーアンは考える。彼は堕ちていく中でも不幸だとは思って居なかったのだろう。妖精の様に、掴み処の無い人だ。人々の思考の及ばない所に彼は居たに違いない。否、もしかすると、羨望や同情から来る身勝手な当て付けかもしれぬが。
(嗚呼、主よ)
数年後矢張り彼は殺された。御伽噺の様な、正義によって。主人公の剣が美しい彼の胸元に深く突き刺さった情景は、今でも鮮明に残る。そしてその主は今、ルーアンの眼前に、目蓋を閉じて眠っていた。世界を恐怖に陥れ、征服した彼は今、穏やかな顔をして、まるで幸せそうに眠っている。そうだ、幸せそうに。
手にしていた白い花を、土の中に横たえられた彼に向かって優しく投げる。眠る彼は、罪を知らぬ子供の様で。太陽が煌めき、窮窿に浮かぶ白雲が流れていく。地獄の花、何ぞ似合わない。きっとその美しい花を彎曲させたのは、正義の方だったのだ。
もう直ぐ幸せになれるんだ、と主は口癖の様に言っていた。もしかしたらこのことかもしれない。ふと、そう感じた。