くだらない短編集
MIRAGE of JUSTICE
硬質な物体を咀嚼する音が、暗澹とした暗闇に反響している。赤黒い血が沼の様に広がっている。都ては人間だったであろう原型を留めない物の上に背中が覆い被さっている。馬乗りに成って、咀嚼している。歪な音が谺している。短髪の男の横顔は苦しげに、ただヒトを喰らっている。酷く美麗な其の面に夥しい程の血が、血が、血が。
■MIRAGE of JUSTICE
靄然とした空気が空に漂う昼間。高等学校の比較的真新しい校舎の三階に位置する教室の中で、二人は昼食を取っていた。片方はブレザーを着崩した、人懐っこい顔をした青年。もう片方は、完成された端正な顔立ちの青年。対照的に見えなくもないが、二人は唯一無二の親友同士である。
「あー!唐揚げ取りやがって!」
人懐っこい顔の彼、将太(しょうた)が子犬の様な唸り声をあげる。怒りの矛先には、箸の先に唐揚げを摘んだ、したり顔の乃木(のき)が。
「将太が余所見をしていたのが悪い」
「このやろっ!天の鉄槌を下されろ!」
「はあ?何のこ」と、と言いかけて、遮られる。後ろに控えていたクラスメイトが、その箸を掴み、自らの口の中に放り込んだのだ。
嗚呼、さようなら、我らが唐揚げ。
「あーーーっ!てめ!そこは俺に返すとこだろ!」
「ざまあ。裏切りも考えてこその策士だろ」
高らかに笑いながら、二人を残して去っていくクラスメイト。微笑ましいと言わんばかりに、周囲の人々の空気が弛緩する。将太は暫く口惜しげに彼の背中を眺めていたが、ふと、気がついたかの様に乃木に目をやった。其の瞳には、深更の暗い色。
「最近さ、知ってる?ニュースで偶にやってんじゃん。謎が多い事件、ほら」
「それが?」
声のトーンを落とした彼に、乃木は僅かに動揺をみせた。しかし、刹那的だった為、この教室に彼の微々たる変化に気付いた者は一人として居ない。
事件とは、中国と日本で稀に起こる、誘拐事件のこと。跡形もなく、人が消えてしまうのだ。そして発見される際には骨のみになっていることが多い。自然と白骨化、と言う訳ではなく、臓器を取る為だけならば骨にする必要もない、という事で謎に包まれた事件として有名なのだ。人間一人を此処まで処理することは大変な重労働であるため大人数の犯行だと考えられている。
「犯人グループの一味が、関東に居るんじゃないかって。インターネットで、今、少し噂されてんの」
「え、でも、それって中国の方が同様の手口、頻繁に起きてるんじゃねえの。だったら中国の方に居るんじゃ」
「だから、一味だって。何聞いてンのさ。しかも、」
この県に住んでんじゃないかッてさ。
まるで、紐解いてはいけないパンドラの函を眼前にしているかの如き興奮をみせる親友に、乃木は苦笑を零してみせた。食べ終えて空になった弁当の蓋を閉じ、箸を箱に直す。
「此処は都会だし、人口だって伊達じゃない。そう言っとけば大概当たるから、そうしたんじゃねえか」
「んー、まァ、ね。インターネットだからって警察も真に受けないだろうしね」
俺だったら捕まえようとするけどね、と彼は付け足して、片付けを始めた。そういえば、と乃木は思考を巡らせる。彼は警察官になることが昔からの夢であった。警察官になって、犯人を捕まえるのだ、と何度も口にしていた。そして、その度に思うのだ。
「なあ、」
「ん?何だよ」
(お前は俺を)
許すのだろうか、と。言い掛けて乃木は昨晩の出来事を思い出した。粘着質な血肉の悪臭が、鼻腔に染みていく────。
「美味しいの?」
甘ッたるい毒を孕んだ艶やかな声が、死んだ肉塊に跨がる乃木の鼓膜を揺らした。蝸牛管の中の液体が振動し、聴神経が危険を知らせた。一般人だろうか、警察官だろうか、優良な人間だったらどうしよう。焦る乃木を余所に、声の主は夜の廃墟に充満する闇から、ぬるりと現れた。
美しい羽を持った、虎であった。窮奇という中国の妖怪の一種である。一歩、一歩。虎はコンクリートの床を踏み躙りながら、隆起した背中の筋肉を、その背中に装飾された両翼を、美しく見せ付ける。爛々と輝く其の瞳には、支配者としての風格が横たわっている。
「父さ、ん」乃木は声を落とす。そう、彼は父であった。彼のことを目にするのは、これで二度目であった。
「久しぶりだね。相も変わらず悪趣味なんだ」
「父さん、何で、」
虎は僅かに身震いすると、身体を小さく丸めた。次第に形はうずくまる人間のそれへと変容を遂げていく。そして、完全なヒトの形をとった彼は立ち上がった。父さん、と呼ぶには端正で若々しい顔をした男を見て乃木は感情に恐怖を滲ませた。血の付いた口元をを拭って、父と同様に立つ。
「未だ、悪人なんて食べてるの。早く上がってきなよ」
男は哀れみ、乃木を眺めた。
「堕ちる、の間違いだろ」
愉快だと虹彩を歪ませる男に、乃木は睨みをきかせる。何が可笑しいと言外に伝えれば、弧を描く口元が更につり上がる。
「堕ちる?笑わせるね。何が悪いんだい。人間は僕等の居場所を奪っていくんだよ。何が、悪いんだい。人間が動物達にやっていることと差違無いじゃないか」
「俺も、その人間の一人だ」
「そう、ならヒトなんて、食べないと思うけど」
乃木には血が流れている。窮奇という、正直者を喰らう妖怪の血だ。抗うことの出来ない本能に、乃木は何度も悩まされてきた。そして仕方無く彼は悪人を喰らうことにした。不味いけれど、それでも衝動を抑制する一時的な薬にはなったのだ。
「僕等はただ、食事をしているんだよ。昔、ほら、居たじゃない。食事は満足する為の物じゃないから不味い物を食べなさいって言った凄い人。でも人間はそんなことしてない。だったら良いじゃないか。僕等だって美味しい物を食べたい」
「人間は!違う!」
「何が?何が違うのさ。食用の鶏と同じだ。同じなんだよ」
じゃあ、何故。何故、貴方は母さんを愛したんだ。喉元を揺らす音は、音となることなく、再び肺に落ちてしまった。それはきっと、乃木が人間を好み、しかし悪人を憎む、そんな感情に酷似していたのだ。
「乃木?」場面は突然変わって、視界が昼間の教室内を映した。
暗闇に呑まれた夜は何処かへ消えてしまった。暫く追想してしまって居たらしい。不思議そうに此方を見つめる将太を眺めながら、笑みを顔に貼り付けた。
「どうしたんだよ」
「いいや。何でもない」
何でも無いんだ、と再び呟いて、乃木は教室内を見回した。ヒト、ヒト、ヒト。飽和してしまった人口密度。彼等は笑い、泣き、くだらない事ばかりをする。他者を見下す事が大好きなクセして、汗水垂らして不格好に何かを守る為に頑張ってみせる。
「なあ、将太ー、乃木ー外でサッカーしようぜ!」
ヒトが笑いながら、二人に手を振った。一緒に食事をしていたヒトが、行こうぜ、と乃木に背を向けて彼等の方向へ駆け出した。けれど、ヒトという単位何ぞではないと思った。クラスメイトの彼等が馬鹿みたく教室を出て行く。将太が、乃木を振り返る。
「乃木、早く行こう」
(そうだ、今はこれで良い)
妖艶に嗤う父の姿が、眼前で微笑む世界に掻き消されていく。幻でも良い。蜃気楼でも構わない。ただ、今はこれでいいのだ。
罅が入る音がした。空が蒼く輝いている。闇は色濃く落ちている。ハッピーエンドは望めないだろう。世界に、罅が入る音がした。それでも知らないふりをした。
《捧、ミクロ卿様》