くだらない短編集
蛇女と苦労人サラリーマン
■蛇女と苦労人サラリーマン
「あの、あなた、そろそろ帰ってくれませんか」
春臣は憔悴しきった顔で、寝室のベッドを占領している女──と形容していいものかは分からないが──を見た。一つに結わえられた艶やかな黒髪。涼やかな目元。身に纏った女物の着物に咲く鮮やかな牡丹の花。
しかし、それを身に纏った者の、鼻はないに等しい程低く、口は異様に大きかった。すらりと伸びる腕には生々しい鱗が存在し、下半身に至っては最早、蛇のそれであった。
「あら、はるみん、冷たい男は嫌われるわよ」
「ハルオミ、です」
「じゃあ私のこともアナタではなく庵雲と呼ばないと」
からかうように、ちろちろと長く細い舌が左右に揺れる。爬虫類特有の瞳を持った彼女の目が緩りと細められた。
庵雲が春臣の前に現れたのは、ほんの2週間前。何の前触れもなく部屋に現れた彼女は、それ以来、断りもなく居座り続けていた。当初は驚いて失神した春臣だったが、慣れと言うものは恐ろしい。最近では不気味な姿の庵雲のことを艶美な妖だと錯覚してしまうぐらいには、感覚が鈍ってきていた。
何度か追い出そうと模索したものの、他人には見えないらしく、全ての行為は失敗に終わっている。しかしながら、害があるわけでも、彼女が食費を貪るわけでもないので、半ば妥協案に逃げる春臣君、今年32歳、独身。
「疲れたんで、ほんと。ベッドで眠りたいんです」
彼女にベッドを奪われた為にリビングのソファーで寝ていた春臣だったが、今日は会社の外回りをさせられて疲労が溜まっていた。どうか安らかに寝させてくれ、という心の叫びである。
「一緒に寝れば良いじゃないの」
「困ります」
ずり落ちた眼鏡を掛け直して、ネクタイを放り投げる───朝シャンでかまわない、と頭の隅の小人会議で判決が下されたから。
シャツのボタンを外し、スボンのベルトを床に落とす。スーツの背広と靴下は玄関に脱ぎ散らかされたままだ。
「夜這いするつもり?」
「勃ちません。退いてください」
「疲れたの?」
「疲れたんです」
今日の先方は、それこそヤが付くような職業に付いていそうな人ばかりで。難癖を付けられては殴られた。相手は春臣の勤める弱小会社を支える大切な取引先だったから、何も言うことができず終いだ。
上司は嫌がって春臣に仕事を押し付ける。部下に流すこともできたけれど、何となく躊躇われた。
「ねえ、はるみん」
庵雲はその手を伸ばすと、近寄ってきた春臣を包み込むように抱きしめた。彼はされるがままに、ベッドの上に座る彼女の胸に顔を埋める。
彼女は体を春臣に軽く巻き付けて、異様に長い首を更に伸ばし、項の痣をぬめりと舐めた。優しく愛撫するように、獲物を味見するように。
「はるおみ、ですよ」
呂律の回っていない声。眠気に誘われるがままに目をつむった春臣の体をベッドに横たえる。長い指で彼の眼鏡を外してやる。おやすみなさい、と囁いて、寝室の灯りを落とす。
月光がきらきらと差し込んだ。夜風が開け放たれた窓から吹き入れる。庵雲は彼の前髪にそっと触れると、穏やかな目で彼を見つめた。