くだらない短編集
文字
■文字
最初は喉に違和感を感じた。水を誤って気管の方に送り込んでしまったかのような、苦しい違和感だ。それは次第に明確な痛みに変わり、最終的には嘔気になった。医者に診てもらっても原因は分からず終い。小説家として細々とやっていたのに、執筆を止めては布団に横たわる毎日。立ち上がれば三半規管が悲鳴をあげ、寝転がれば胃液が食道にせり上がる。
その日、男──松江はキッチンに立つ幼なじみの背中を見つめていた。長年、連れ添ってきた彼は何かあるごとに松江を助けてくれる、言うなれば竹馬の友という奴だ。彼が布団から起き上がれなくなったときも、誰よりも真っ先に駆けつけてくれたのが彼だった。
名前は、朴木。学生時代に出席番号が前後だったことがきっかけで仲良くなった。昔からお人好しな彼は、今もこうして回復の見込みのない松江を看病してくれている。感謝してもしきれないだろう。
音痴な彼は微妙に音の外れた調子で鼻歌を歌いながら、出来上がった料理をお盆に乗せて松江の枕元に持って来る。美味しそうなお粥が盆の上に乗っていた。
「大丈夫か」
聞かれて口を開こうと努める。だが口から零れ落ちるのは、情けないかな、喘鳴だけである。言葉や文字は蓋をされているせいで、体内で暴徒化している。血流に逆らって、その数を増やしていく。明日は心臓が、太陽と蝉のコントラストに台喝采の。松江は頭を振る。蠅のように聴覚や視覚の中を徘徊する言葉達が五月蝿い。黒い点が、羽音が思考を埋め尽くす。
「お粥、食べられるか」
「お前は」
三月のカレンダーは美味しいか。化膿した眼球の摘出手術は総理大臣の歯ブラシのせいらしい。
「病気がうつるから、やめとけ、もう」
何を言っているんだ、とお人好しな彼は微笑んで松江の上体を優しく起こし、壁に凭れ掛けさせた。背中が痛まないように、クッションが体と壁の間に挟まれる。
その行為に、松江はどうしようもない愛しさを感じた。彼が居てくれて良かった、と心から思う。言葉に出来ないことが辛かった。硝子玉のような闇色の瞳が松江を見つめる。その瞳だけは、幸せを見ていてほしいと考えて───吐き気。それは唐突に襲ってきた。嘗てない程に、身体が震える。
心配そうに朴木が松江の身体に触れた。その瞬間に、彼はそれを地面に吐き出した。何度も、何度も口から吐瀉物が溢れる。しかし、それは消化された個体でも胃液でもなかった。粘着質な液体が、口とその物体の間に糸をひく。その物体は、どういう訳か、文字の塊だった。
「な、なに」
朴木が驚いた声を漏らす。床に撒き散らされた文字の羅列の真っ黒い塊が、異様な雰囲気を放っている。それは彼の感情が押し込められた言葉の群集。
「とにかく水を」
「いら、ない」
朴木は立ち上がって冷蔵庫に向かった。コップを食器棚から取り出して、その中に水を入れる。
その間に、松江は気分を落ち着かせようとしていた。吐瀉物を極力視界に入れないようにして視線を彷徨わせる。胃の底に沈む嘔吐感が、未だ顕在しているのをみると、第二波まであるらしい。絶望の色に世界が染まる。気分が鬱々としてきて、死にたくなってくる。ああ、先週のニュースで誰かが、蠅の音が、と叫びながら自殺をしたと言っていた。記憶が脳内で蘇る。酷く鳥が虹色と、あなたを笑って誤魔化す、満月が。こちらはいかが。あなたは幸せか。
「なあ、松江」
朴木が口を開いた。
「この部屋、蠅が」