くだらない短編集
忘れ物
■忘れ物
言葉が、言葉が胎内に転がっている。五月蝿く語りかけてきては、僕の感情や思考を構成していく。そうして出来上がった司令塔は僕に理性を与えるのだ。幼い頃の指示は簡単で良かった。泣け、笑え、歩けで良かった。それがいつしか、あの子を嫌え、上司への気配りを、といったふうに複雑な指令へと変化していた。僕が何と控訴しても、司令塔の手前で弾き出されてしまう。いつしか僕は従うことに慣れて、ただ溜め息を吐き出すだけの精神となっていた。
会社帰り、帰路についた僕は地面を眺めながら歩く。履き慣れた革靴がコンクリートのようにくすんで見えた。若い頃の新鮮味は何処に置き忘れてきただろう。校舎の靴箱か、はたまた、大学の講義室か。それは確かに後ろの方に在った気がして、僕は振り向く。しかしながら、当然なことに、視界に映るものは何もない。いつも通りの見慣れた住宅街だ。何の変哲もない、言ってしまえば面白みの欠片もない風景。司令塔に従うだけの、人生。
溜め息を吐く。感傷に浸ったところで、歯車は一寸の狂いもなく刻々と回り続けるのだ。胸の奥の方に、得体の知れない希望を隠して踵を返す。
そのときだった。鳴き声が聞こえた。僅か数歩先のところに子猫が佇んでいた。尻尾が左右にゆらりゆらりと揺れている。くすんだ灰色の、子猫。
「お前もつまらないか」
にゃあ、と一声。
「一緒に来るか」
飼ってはならない、と命令される前に僕は子猫を抱き上げた。黙ってくれないか、と釘を刺して、司令塔に背中を向ける。
あたたかい体温が掌に伝わってくる。心の中まであたたかくなるような気がして、優しく微笑む。小学生の頃、忘れ物をランドセルの奥底に見つけたときの感情に似ていた。だから、なのだろうか。
「おかえり」
そう言って、僕は一歩、踏み出した。