くだらない短編集
サモトラケノニケ






■サモトラケノニケ■




彼女は戦場で、緩と両手を広げた。戦場であった筈の空間を静寂が制圧する。彼女は王女であった。僅か14歳の、若き王女であった。轟々と風が廃都を駆ける。22××年、世界は荒野と成り果てていた。神という単位は消え去り、始まった人類同士の殺し合い。繁栄する巨大帝国の王様が始めた暇つぶし。

その時代の、巨大帝国の王女となった少女は、戦場で戦う男達と友情関係にあった。友情関係、というよりかは、麗しいその幼女を自らの子供に投影していたのかもしれない。ふっくらとした白桃色の唇に、小さな掌。何時しか男達は国の為ではなく、彼女の為に、戦いたいと思うようになっていた。



その小さな命を、まもりたい、と。


その守るべき対象が、今、何故か此処に存在していた。卑劣と怯懦と血と埃の匂いしか存在しないこの場所に、シルクの白い布に覆われた穢れなき希望が舞い降りる。その幼き瞳には、諦念などではなく、宿望を湛えている。

疑問、よりも先に、全てを奪われた。全ての時間が時を止める。音が眠り、世界は沈黙する。裸足は軽やかに地面を蹴った、重力を亡くした少女は、戦場の真ん中で立ち止まった。そして、両手を緩と広げた。



それは、男達の知る幼女ではなかった。いつも怪我を負った両手を見、眼を伏せる彼女ではなかった。深く慈悲深い微笑みを魅せ、総てを戒め、赦す女神。風が彼女の柔らかな髪を靡かせる。白いシルクが戦場ではためく。

一歩、一歩、此方へ背中を向けて彼女は歩む。まるで、ニケだ。広げられた両手が端から白く変色し、変形して行く。白い羽毛が両手を覆い、羽翼を形成してゆく。きっと、夢を見ているに違いなかった。古代の偉大なる神が息吹いている。幼女は立派な女性となり、白く陶器のような素肌を黒く煤けた戦場で露わす。高潔な純白の翼が、風を静かに受け止める。

世界は、拍動を、止めた。



刹那、彼女の首が敵の手によって切り落とされる。ゆっくりと、ゆっくりと、彼女の頭が落下していく。不思議と血は噴き出さなかった。沈黙を守っていた戦場は音を取り戻し、時を流し出す。彼女は、彼女自身の死を以てして巨大帝国に示して見せたのだ。

しかし、男の眼に映るのは、血で汚れてしまった己の掌をただ優しく包み込む、小さな微笑みだった。







< 4 / 40 >

この作品をシェア

pagetop