くだらない短編集
くだらない短編集
世界は逆さまにならないし、空気に恋する筈もないし、文字を人が吐き出す訳もない。それは所詮のところ、夢物語なのだ。映像のない無声映画にも及ばない。仄かな灯りの中に浮かぶ赤い客席には何もかもが亡い。フィルムは映写機の中で回り続け、スクリーンは同じ映像を繰り返す。これ程までに滑稽な喜劇には、スタンディングオーベーションこそ相応しいだろう。
高級感のある真紅の席の一つに、男が一人、座っていた。長い脚を組みながら歪な微笑をその頬に浮かべている。瞳は黒曜石みたく透明で、奥底が見えない。
「くだらない話ばかりだった。星が一つも瞬かない夜のような」
スクリーンの前に立つ女は、男を見る。くだらない何ぞと愚弄しながらも、最期まで彼はここに居続けたのだ。欠伸を噛み殺すのは、酷く億劫だったろう。落ちる瞼は夕暮れよりも重い。それでも、ああ、彼は。
「如何だった」
女は問い掛ける。男は席から立ち上がると、階段を下り、彼女の眼前まで訪れた。革靴の音は絨毯に沈み込んでしまって、まるで、無声映画のような静けさの中。
「信じる価値もない、有り得ないものだよ。夢と現実は区分けられるものだし、人に翼は生えないし、走っても空は飛べなかった。人を殺すのは何よりも難しいんだ。意識だけが朧々としていて。過去で形成された身体に、未来はほんの少し痒かったよ。光は痛覚を刺激し、かと言って闇が鎮痛剤に成る訳ではない。矛盾しているとは理性が熟知していたが、本能は口を揃えて綺麗事を吐露している」
声に時々、ノイズが走る。黒い点が視界に浮かぶ。未だ──未だ、お願い。彼女は息を止める。眼球の表面に、少しでも映画のワンシーンを繋ぎ止めたくて、瞬きさえもできなくなる。男の指先が伸ばされる。ゆっくりと、ゆっくりと。それに応えるように彼女も手を差し伸べる。
「ああ、だけれど、本能に従おうかな」
微笑む彼の声。二人の指先が、触れ合う寸前。
「うつくしい、 だったよ」
スクリーンの白は砂に変わる。映画館の壁は剥がれ落ち、椅子は色褪せて、崩れ落ちる。照明は天井の大きな穴から零れ落ちる陽光だけだ。映写機は灰となって、絨毯は木板の地面に変わる。映写機の奥に居た彼は疾うの昔に居なくなっていたのだ。
なんと悲哀な、物語の終焉だろう。
女は溜め息を吐き出すための酸素も惜しくて、唇を噛む。そのとき、彼女が口から吐き出した言葉は、男の名前、罵倒、後悔だっただろうか。それとも。
「さようなら」
きっと、どれも違うのだ。感情の塊は、それこそ吐瀉物である文字の羅列のようで。はたまた、投げつけられたトマトのようで、振り向いた先の子猫のようで。
悲哀だけれど、けれど、微笑まずにはいられない。
「確かに、くだらないわね」
女は踵を返すと映画館を後にした。漸く誰もいなくなった世界。映写機の中の名もないフィルム。忘れ去られた白黒映画のポスター。廃れた映画館の一つの客席には、光が降り注いでいた。その光に照らされた、花束は風に揺らされたまま。
■くだらない短編集、完