くだらない短編集
君と宇宙で喧嘩する





草臥たスーツを着た会社帰りの男、宮野はマンションの自室に傾れ込んだ。余程疲れて居るのだろう、端正である筈の顔が酷く窶れている。

今日は早く帰って寝よう。然ンな事を靄の掛か る頭で宮野は考え乍ら廊下を突っ切ってリビングの扉を開け電気を付ける。

だが、硬直してしまった。リビングの南側に取り付けられたベランダに続く窓。宮野の記憶では今朝閉めて出て行った筈なのに、何故か其は開いて居て。冬の夜風に吹かれて幻想的に揺れるカーテン。然して其の奥で、見知らぬつなぎ姿の青年が――此処はマンションの最上階の十四階なので高所であるのに――足を外側に放り出して手すりに座って居た。

「お邪魔してまーす」

ひょい、と軽い羽の如く身を捻ってベランダへ着地する謎の青年。宮野は口を魚の様に動かすと、恐怖に一歩後退った。空巣だろうか。空巣に殺されるなんて話は少なく無い。脳を過る最悪の結末に叫び出しそうな心臓を抑えつける。併し、然んな彼とは反対に青年は優しく笑うと手に持って居たバケツを高く掲げた。



「ペンキ塗りっス」

良く見れば青年の服や髪にはペンキらしき物が着いて居た、が。其処ではい然うですか等とは言っていられない。宮野は決意を固めると、近くに何か武器がないか探す時間稼ぎに青年に質問を投げ掛ける事にした。

「きき君は誰だ」

吃るとは情けない。けれど悠長な事も言ってられ無い。

「だからァ、ペンキ塗りっスよ。此処から見える景色があんまりにも貧相なんで」

「ぺ、ぺンキなんて、頼んでないし。第一此の部屋に如何して入ったんだ。というより貧相なん―――」

「もう。煩いなァ。見れゃあ分かるんスから」



言葉を遮って、青年は背を宮野に向けた。好機だ。じわりと汗ばむ手で、気付かれない様に、静かにフライパンを掴もうとして。眼に映った光景に、身震いした。青年がベランダの手すりの上に立って居たのだ。

――――自殺

なんて。嫌な単語に脳内を撹拌される。止めろ、と口から言葉が発せられる前に勝手に身体が動いて居て。気付けば宮野の手は武器では無く、青年の腕を掴んで居た。余りにも酷い形相だったのだろうか。青年は其を見て、安心させる為に手すりからベランダの内側へと戻って来た。

「仕方無いっスね。ほら、見ててくださいよ」

子供をあやすかの如く優しい声色に、宮野の耳が赤く染まる。一つでも文句を言ってやろうと口を開いたが、直後、眼前に突き出されたバケツの中の物に彼は眼を奪われた。

たぷん、たぷん。バケツの中に佇む黒――否、単調な只の黒何ぞでは無く僅かばかりの青を孕んでいる。然して其処に揺蕩う様に無数に散らばった光の粒。

嗚呼、此れはまるで。

「綺麗でしょ」

─────光り輝く。

ふ、と我に返って宮野は自分の考えに頭を振った。ほんの少し心臓の奥でちらついた感情を罵倒する。

併し青年は平然と、ただ一言。

「此れは夜空なんだ」



とくり、とくり。優しさが温もりを身体中に染み渡らせて行く。夢見心地の儘、宮野は星の輝く宇宙の様に眼を輝かせて青年を見遣った。青年は何処から取り出したのか大きな筆を手に持って、バケツの中に突っ込んだ。途端、弾ける淡い光。



「昔、宇宙と喧嘩して仕舞ッて。だってアイツ、人間達が嫌いだって言ったんスよ。だから怒った、然したらね、僕の一部をあげるから君が夜空を運べば良いッて」

口を動かし乍ら夜空の滴る筆を高く掲げ、空と云うキャンパスに丁寧に夜を描いて行く。 確かに青年が塗った其処はスパンコールを鏤めたかの如く美麗に為って居た。

然して、また、宮野の心もきらきらと淡い光を放って居た。



「じゃあ、次の仕事も在るし。全部無くなっちゃうと困るんス。だからまた会いましょ」


嘘だ。決してもう逢えないのだろう。本能的に感じ取った宮野はそれでも引き止めようとは思わなかった。バケツを奪って売り捌こうとも考えなかった。

其の感情は小さな頃、クリスマスの夜、サンタさんを待つあの感情にも似ていた。



「いってらっしゃい」

其の言葉を聞いた後にきらきらと溶ける様に夜に消えた青年の影に、宮野はほうと息を吐く。寒い。肌を刺す痛みを思い出して大きく身震いした。彼は開け放たれた窓から、冬の寒さが鎮座した部屋の中へと戻って行く。けれども其の背中には何時もと違う何かが在った。




■君と宇宙で喧嘩する■


世界は未だ こんなにも美しいのだ、と




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