孤高の魚



……『アユ』


野中七海の小さな唇は、確かにそう発音した。


煙草は煙を上げながら、彼女の指から灰皿へと場所を移される。

……灰皿?

違う。
咄嗟に煙草を吸い出したからだろう。
よく見ると灰皿ではなく、取り皿として彼女自身が用意した、桜色の小鉢がそれの代用品になっていた。


「……アユ、もうね、七海は影なんて嫌なの。
掴めない影なんて嫌。
……責めるなら責めればいいのよ?
七海はもう、逃げたりなんかしないのだから」


そう湯気へと言葉を紡ぐ彼女の声は、かなり落ち着いている。
いつもの、彼女の可愛らしい声と何も変わらない。


彼女には……
歩太の姿が見えているのだろうか?

鍋の湯気へと形を変えた歩太。
ユラユラと漂う、ただの影でしかない歩太。


それを追う……彼女の視線。



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