フェイドアウト
再会
ほんの少し、いつもより早い電車に乗る。
たったそれだけのことで、いつもと同じ景色はこんなにも違って見える。
この季節以外にはその存在すら気にならない線路沿いの桜並木が、今だけは淡いピンク色の花をそこらじゅうにほころばせている。
車窓から見上げると、桜並木とその向こうに淡く広がる春の青空とのコントラストがよりはっきりと際立っていて眩しかった。
踏切に差し掛かると、集団登校らしい小学生の姿が見えた。
先頭にいる高学年ぽい女子二人の後ろを一生懸命に追いかけてくる真新しそうなランドセルを背負っているのはきっと新一年生なんやろなぁ、と思った。女子二人組みは自分たちのおしゃべりに夢中で、後ろの一年生には目もくれずに歩いていたが、踏切の手前で立ち止まるとちらっと後ろを振り返り、その存在がついてきていることを確かめ、また二人とも前に向き直っておしゃべりを続けている。踏み切りで立ち止まったおかげでやっとのことで二人に追いついた一年生が、まだ被り慣れない色鮮やかな黄色い帽子を直しているその前を、少し速度を落とした私を乗せた電車がゆるやかに通り過ぎていく。
会社までは都心から郊外に向かう路線なうえに、最寄駅が普通電車しか止まらないへんぴな駅なので、各駅停車のこの電車は余計に人もまばらで、普段から通勤時間帯といえども満員電車というほどの混雑さはない。
だいたい電車というのは時間帯が多少変わっても、たいていいつも乗る場所が決まっているもので、私はいつもと同じ3両目の一番後ろのドアの横に立っていた。
車内に目をやると、横長の座席はすでに満席で、その前には座りきれない人たちがずらりと並んで立っている。新聞や本を広げたり、携帯電話の画面を食い入るように見つめている人ばかりで、一人ひとりが完全に自分の世界を作っていた。車内はしんとしていて、電車が加速するごおーっという音と風を切って走るがたがたという音だけが響いている。スーツを着たいかにもサラリーマン風のおじさんが、朝なのにもかかわらず眠たそうに大きなあくびをしているのが見えた。
車窓の向こうに大きく広がる景色を眺めて、小春日和ってこういう日のことをいうんやろうな、とぼんやり考えながら、そうか、景色が違って見えるのは、いつもの慌ただしい朝と違って心に余裕があるからかもしれない、と思った。道沿いの緑色のテントのパン屋さんは昨日もそこにあって毎日見てるはずなのに、とくに気に留めたことはなかった。
春のせいか、いい天気のせいか、なんとなく気分が良くて、たまには早起きするのもいいもんやなと思った。
ひとつ向こうの駅に着くと、サラリーマンやOL風の数人が並んで電車を待っていた。
あたり前のことだけれど、電車が違うと乗ってくる人たちの顔ぶれも違うもんだなと思っていると、ドアが閉まる間際にスーツ姿の男性が駆け込んできた。
その彼の横顔を見て、思わずドキッとして息をのんだ。
無事に電車に乗り安心した様子の彼は、何気なく振り返りふと私の顔を見ると、びっくりしたような顔をして、
「……あれ?」
ひとこと、そう言った。
目の前に立っている人を、見間違えるはずなどなかった。
「…アキ?」
「もしかして……って思ったらやっぱり。瑞穂やろ。」
あたしはうん、とうなづくのが精一杯なほど、この突然の再会に戸惑っていた。
アキも、目の前の人物が間違いなく私だとわかると、
「えー、まさかこんなところで会うなんて偶然やなあ、ホンマびっくりしたわ。」
といいながら、照れたように右手でくしゃっと髪をかきあげ頭を掻きながら笑った。
完全に思考回路が止まっていた私だったけれど、その笑顔があまりに昔のそのまま過ぎて、変わらへんなと思った。
アキとは高校3年の時に付き合っていた。お互いに違う大学に進学し、時の流れとともに、いつの間にか会わなくなっていった、というよりは、アキの世界が遠くなりすぎて、私がだんだんおいてけぼりになってしまったような気がして、きちんと別れたわけじゃなく、自然消滅……そんな言葉が適当なのかどうかわからないけれど、会わなくなってからもう4年の月日が流れていた。
そして今、目の前にいる彼のすらっとした長身も、短くふわっとした栗色の髪も、まっすぐにこっちを見据える瞳も、無邪気そうに微笑む笑顔も、あの頃と変わってはいない。
ただ、会わなかった歳月の分だけ少し大人びているのを感じて、それがなんだか切なくて、胸にちくっと痛んだ。
「瑞穂っていつもこの電車に乗ってたん?今まで会ったことなかったけど。」
「今日はたまたま。普段はもうひとつあとの電車やねんけど。」
「そうやんな、いつも乗ってたら絶対、気づくもんな。」
自信ありげにアキは言って、大きくうなづいて見せた。
「これから仕事なんやろ?」
「うん。見てのとおり、立派な社会人って感じ、漂ってるやろ?」
私が着ているスーツの裾を引っ張って、格好つけながらそう言うと、
「ま、そうやな。」
そうだなんて少しも思ってもない様子で、クスッと笑いながら言うアキに、
「アキは、全然変わってないね。」
ちょっと意地悪そうに私は言い返した。 「それって微妙やなあ。俺だけあんまり成長してへんってことやん。」
不服そうに言うアキがかわいくて私は笑ったけど、それがまたアキにとっては不満気なようだった。
本当は、アキのスーツ姿を見るのも、もちろん初めてだったし、それがさらに彼を大人びて見せていて、そんなアキに今さらながらにドキドキしている自分を悟られたくなかった。
アキは反論するのを諦めたようにドアにもたれかかると、私の顔をみて、
「でも、瑞穂が元気そうで安心したよ。」
ニコッとして、そう言った。
「俺もこの春から印刷会社に勤めてるねん。なんかいろいろ覚えることばっかりで、社会人って大変やな。」
「そーやんな。同じ年齢の友達と戯れてる学生の時とは全然違うし、毎日おっちゃんたちに囲まれて仕事して、なんか会社におるんやって感じするもんな。」
「なんかそれ、瑞穂らしいな。」
私は感じたことをそのまま口にしたつもりだったけれど、アキが何をどう私らしいと感じたのかよくわからずにいた。
「音楽はまだ続けてるん?」
気になっていたけど何気ない風を装って聞いてみた私の質問に、一瞬、アキの表情が固まったように見えた。
「ああ、まったくやめたわけじゃないけどね。でも、さすがにそれでは食っていかれへんからなぁ。」
と言って苦笑いした。
「……そっか。」
それ以上の言葉が続かなくなってしまって、やっぱり聞かへんかったらよかったかなと思ったけど、出た言葉をなかったことに戻せるわけじゃない。
「ま、俺も大人になったってことやな。夢だけ食べて生きていけるんやったらええけどな。バクやないから無理やわ。」
アキは冗談混じりに笑いながらそう言った。
車内に、次の停車駅は~、という車掌さんのアナウンスが響いた。
「私、次の駅で降りるねん。」
「あ、そうなんや。」
電車はこの先に見える駅のホームに向かって電車独特のブレーキ音を響かせながら減速しはじめた。ゆっくりとホームに描かれた白い丸い円に沿うように止まっていくのを黙って見ていた。
「じゃあ、ね。」
偶然の再会にまたね、なんて言うのはおかしいし、でもさよならと言うのもなんか変な気がして、思いついた 一番無難そうな言葉を告げて、私は電車を降りるためにドアの方に体を向けて歩き出した。
「俺さ、いつもこの電車に乗ってるから。」
背後からそう言う彼の声が聞こえた。
その瞬間、胸がぎゅっと掴まれたような気になったけれど、あたしは振り向かずにそのまま電車を降りた。
電車が何事もなかったかのように走りさっていくのを横目で見ながら、改札口につづく階段へ向かった。電車が去ったあとのホームを吹き抜ける春の風が頬をなでるのを感じて、暖かいはずのそれがなんだか涼しく思えた。
たったそれだけのことで、いつもと同じ景色はこんなにも違って見える。
この季節以外にはその存在すら気にならない線路沿いの桜並木が、今だけは淡いピンク色の花をそこらじゅうにほころばせている。
車窓から見上げると、桜並木とその向こうに淡く広がる春の青空とのコントラストがよりはっきりと際立っていて眩しかった。
踏切に差し掛かると、集団登校らしい小学生の姿が見えた。
先頭にいる高学年ぽい女子二人の後ろを一生懸命に追いかけてくる真新しそうなランドセルを背負っているのはきっと新一年生なんやろなぁ、と思った。女子二人組みは自分たちのおしゃべりに夢中で、後ろの一年生には目もくれずに歩いていたが、踏切の手前で立ち止まるとちらっと後ろを振り返り、その存在がついてきていることを確かめ、また二人とも前に向き直っておしゃべりを続けている。踏み切りで立ち止まったおかげでやっとのことで二人に追いついた一年生が、まだ被り慣れない色鮮やかな黄色い帽子を直しているその前を、少し速度を落とした私を乗せた電車がゆるやかに通り過ぎていく。
会社までは都心から郊外に向かう路線なうえに、最寄駅が普通電車しか止まらないへんぴな駅なので、各駅停車のこの電車は余計に人もまばらで、普段から通勤時間帯といえども満員電車というほどの混雑さはない。
だいたい電車というのは時間帯が多少変わっても、たいていいつも乗る場所が決まっているもので、私はいつもと同じ3両目の一番後ろのドアの横に立っていた。
車内に目をやると、横長の座席はすでに満席で、その前には座りきれない人たちがずらりと並んで立っている。新聞や本を広げたり、携帯電話の画面を食い入るように見つめている人ばかりで、一人ひとりが完全に自分の世界を作っていた。車内はしんとしていて、電車が加速するごおーっという音と風を切って走るがたがたという音だけが響いている。スーツを着たいかにもサラリーマン風のおじさんが、朝なのにもかかわらず眠たそうに大きなあくびをしているのが見えた。
車窓の向こうに大きく広がる景色を眺めて、小春日和ってこういう日のことをいうんやろうな、とぼんやり考えながら、そうか、景色が違って見えるのは、いつもの慌ただしい朝と違って心に余裕があるからかもしれない、と思った。道沿いの緑色のテントのパン屋さんは昨日もそこにあって毎日見てるはずなのに、とくに気に留めたことはなかった。
春のせいか、いい天気のせいか、なんとなく気分が良くて、たまには早起きするのもいいもんやなと思った。
ひとつ向こうの駅に着くと、サラリーマンやOL風の数人が並んで電車を待っていた。
あたり前のことだけれど、電車が違うと乗ってくる人たちの顔ぶれも違うもんだなと思っていると、ドアが閉まる間際にスーツ姿の男性が駆け込んできた。
その彼の横顔を見て、思わずドキッとして息をのんだ。
無事に電車に乗り安心した様子の彼は、何気なく振り返りふと私の顔を見ると、びっくりしたような顔をして、
「……あれ?」
ひとこと、そう言った。
目の前に立っている人を、見間違えるはずなどなかった。
「…アキ?」
「もしかして……って思ったらやっぱり。瑞穂やろ。」
あたしはうん、とうなづくのが精一杯なほど、この突然の再会に戸惑っていた。
アキも、目の前の人物が間違いなく私だとわかると、
「えー、まさかこんなところで会うなんて偶然やなあ、ホンマびっくりしたわ。」
といいながら、照れたように右手でくしゃっと髪をかきあげ頭を掻きながら笑った。
完全に思考回路が止まっていた私だったけれど、その笑顔があまりに昔のそのまま過ぎて、変わらへんなと思った。
アキとは高校3年の時に付き合っていた。お互いに違う大学に進学し、時の流れとともに、いつの間にか会わなくなっていった、というよりは、アキの世界が遠くなりすぎて、私がだんだんおいてけぼりになってしまったような気がして、きちんと別れたわけじゃなく、自然消滅……そんな言葉が適当なのかどうかわからないけれど、会わなくなってからもう4年の月日が流れていた。
そして今、目の前にいる彼のすらっとした長身も、短くふわっとした栗色の髪も、まっすぐにこっちを見据える瞳も、無邪気そうに微笑む笑顔も、あの頃と変わってはいない。
ただ、会わなかった歳月の分だけ少し大人びているのを感じて、それがなんだか切なくて、胸にちくっと痛んだ。
「瑞穂っていつもこの電車に乗ってたん?今まで会ったことなかったけど。」
「今日はたまたま。普段はもうひとつあとの電車やねんけど。」
「そうやんな、いつも乗ってたら絶対、気づくもんな。」
自信ありげにアキは言って、大きくうなづいて見せた。
「これから仕事なんやろ?」
「うん。見てのとおり、立派な社会人って感じ、漂ってるやろ?」
私が着ているスーツの裾を引っ張って、格好つけながらそう言うと、
「ま、そうやな。」
そうだなんて少しも思ってもない様子で、クスッと笑いながら言うアキに、
「アキは、全然変わってないね。」
ちょっと意地悪そうに私は言い返した。 「それって微妙やなあ。俺だけあんまり成長してへんってことやん。」
不服そうに言うアキがかわいくて私は笑ったけど、それがまたアキにとっては不満気なようだった。
本当は、アキのスーツ姿を見るのも、もちろん初めてだったし、それがさらに彼を大人びて見せていて、そんなアキに今さらながらにドキドキしている自分を悟られたくなかった。
アキは反論するのを諦めたようにドアにもたれかかると、私の顔をみて、
「でも、瑞穂が元気そうで安心したよ。」
ニコッとして、そう言った。
「俺もこの春から印刷会社に勤めてるねん。なんかいろいろ覚えることばっかりで、社会人って大変やな。」
「そーやんな。同じ年齢の友達と戯れてる学生の時とは全然違うし、毎日おっちゃんたちに囲まれて仕事して、なんか会社におるんやって感じするもんな。」
「なんかそれ、瑞穂らしいな。」
私は感じたことをそのまま口にしたつもりだったけれど、アキが何をどう私らしいと感じたのかよくわからずにいた。
「音楽はまだ続けてるん?」
気になっていたけど何気ない風を装って聞いてみた私の質問に、一瞬、アキの表情が固まったように見えた。
「ああ、まったくやめたわけじゃないけどね。でも、さすがにそれでは食っていかれへんからなぁ。」
と言って苦笑いした。
「……そっか。」
それ以上の言葉が続かなくなってしまって、やっぱり聞かへんかったらよかったかなと思ったけど、出た言葉をなかったことに戻せるわけじゃない。
「ま、俺も大人になったってことやな。夢だけ食べて生きていけるんやったらええけどな。バクやないから無理やわ。」
アキは冗談混じりに笑いながらそう言った。
車内に、次の停車駅は~、という車掌さんのアナウンスが響いた。
「私、次の駅で降りるねん。」
「あ、そうなんや。」
電車はこの先に見える駅のホームに向かって電車独特のブレーキ音を響かせながら減速しはじめた。ゆっくりとホームに描かれた白い丸い円に沿うように止まっていくのを黙って見ていた。
「じゃあ、ね。」
偶然の再会にまたね、なんて言うのはおかしいし、でもさよならと言うのもなんか変な気がして、思いついた 一番無難そうな言葉を告げて、私は電車を降りるためにドアの方に体を向けて歩き出した。
「俺さ、いつもこの電車に乗ってるから。」
背後からそう言う彼の声が聞こえた。
その瞬間、胸がぎゅっと掴まれたような気になったけれど、あたしは振り向かずにそのまま電車を降りた。
電車が何事もなかったかのように走りさっていくのを横目で見ながら、改札口につづく階段へ向かった。電車が去ったあとのホームを吹き抜ける春の風が頬をなでるのを感じて、暖かいはずのそれがなんだか涼しく思えた。