行きはよいよい 帰りはピーポーピーポー
事件がきっかけとなり、由理阿の中で確実に何かが変わっていた。
もう散々! こうなれば、ここを出て行くしかない。沙羅の言うように、このアパートは呪われてる。あした実家に帰ったら、引越しすることを伝えよう。そして、ここに戻ってきたら、すぐにアパート探しを始めよう。
ソファに横になり引越しに思いを巡らせているうちに、由理阿は眠りの淵に落ちていった。
どれくらい時間が経ったのだろうか?
「あなたの魂を抜きます。よろしいですか?」
不意に耳元で子どもの声がした。
はっとして上半身を起こそうとしても、体が動かない。とてつもなく重い。恐る恐る薄目を開けると、体の上に血の気のない白い顔の子どもが乗っていた。
おとなしい声からは想像もできないような、物凄い形相で睨んでくる。馴染みのない顔だったが、その染みだらけのランニングには確かに見覚えがあった。いつもうつむいたままで顔がよく見えなかったあの男の子、石村正雄に違いなかった。
目を合わさず必死で命乞いする。
「そんなことしないで、お願いだから。前世のあたしが神社で振り向いてしまったから、君を死なせることになってしまったことは、本当に悪かったと思ってる。そもそも間引きをして日の浅いあたしが、君を連れて神社に参るべきじゃなかったこともわかってる。でも、どうしてそのことで現世のあたしが責められなきゃならないの? お願い。殺さないで。お願い。命だけは助けて」
そこで目が覚めた。
あぁ、夢でよかった!
ほっと安堵の胸を撫で下ろしたのも束の間、子どもが再び耳元で囁く。
「あなたはもう死んでいます。あなたはぼくにしたことの罪を償わなければなりません」
死にたくない。まだ夢の中にいるのかもしれない。覚めることさえできれば------早く現実に戻らなければ。
頭の片隅でそう思った瞬間、信号機のメロディーが聞こえてきた。
通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細道じゃ
天神様の 細道じゃ
ちょっと通して 下しゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ
この子の七つの お祝いに
お札を納めに 参ります
由理阿が横断歩道を半分ほど渡った時、反対側に石村千代子が現れた。夕暮れの薄闇に包まれ、地面から少し上の空間に浮いていた。
薄汚れた白い着物の胸の辺りには、血がべっとり付着し、口元からも血が流れていた。喀血したようだが、うつむいたままで表情をうかがい知ることはできない。
女はすーっと滑るように由理阿の方に向かって来る。風が吹いているのに、髪は少しもなびいていない。
ぞくぞくっと血も凍るような戦慄が全身を駆け抜けた。
引き返そうかと振り向こうとした瞬間、首と喉に締めつけられるような痛みを覚えた。またしても赤ん坊が背後からしがみついているような感覚だ。
前進することも後戻りすることもできない。立ち往生しているうちに点滅信号となり、連動してメロディーが変わった。
行きはよいよい 帰りは ピーポー ピーポー
由理阿は救急車の中に横たわっていた。搬送中に意識が薄らいでいく。
意識が戻った時には、辺り一面暗闇だった。それでも、目が慣れてくると、仄かに灯る街灯の下、駅前のバス通りがぼんやりと浮かび上がってきた。
ここは前に一度来た所だ。前回よりも一層暗いような感じを受けるけれど。
白と黒しか色のない世界の人っ子一人いない通りを、恐る恐る歩いていると、いつの間に現れたのか、濃い色の猫が目の前を歩いている。自分に気がついたのか、突然立ち止まり、振り向いてこちらをじっと見つめている。
前と同じ猫なのか判断が付きかねる。違うような気もする。目を凝らして見ているうちに、闇の中に消えていった。
どこからともなくあのわらべ歌が聞こえてくる。信号機から流れてくるメロディーではない。どこかで姿なき男の子が歌っているらしい。石村正雄かもしれない。
通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細道じゃ
天神様の 細道じゃ
ちょっと通して 下しゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ
この子の七つの お祝いに
お札を納めに 参ります
どこから現れたのか、先ほどの猫が青信号の横断歩道を渡っている。
その時、「ピーポー、ピーポー」と救急車のサイレンが聞こえてきた。横断中の歩行者がいないことを確認すると、そのまま赤信号を突っ切って行ってしまった。
猫はどうなったのだろう?
赤信号に変わった横断歩道に何か落ちているようだ。その周りに濃い色の液体が溜まっている。
次の瞬間、ベランダから部屋の中を覗いていた。すぐに自分の部屋だと気がついた。サッシ戸を通り抜け、中に入ってみる。
枕元の目覚まし時計の秒針がカチカチ音を立てている以外は、ひっそりと静まり返っている。暗闇に蛍光塗料が塗られた針が浮かび上がっていた。午前2時49分だ。
部屋はいつもと何ら変わった様子はないようだ。それまで張り詰めていた神経がほっと 緩んだ途端、ふとベッドの人の膨らみに気づいた。
前回同様、誰かがベッドに横たわっていた。
こちらに背を向けているため、誰なのかわからない。そっと反対側に回り、顔を覗いてみると、自分に他ならなかった。
でも、前回と何かが違う。寝顔は死人のように真っ白で、寝息を立てていない!
死 ん で い る------。
一瞬、頭の中が真っ白になったが、胸の中にじわじわと染み込んでくる暗い絶望を、必死で拒む。
まさか、こんなことって------信じられない。夢に決まってる。夢から覚めることさえできれば-----。
頭の片隅で、妙に冷静にそんなことを考える。
由理阿は突然夢遊病者のようによろよろと起き上がり、トイレに入った。
あぁ、夢でよかった! あたし、まだ生きてるんだ!
トイレの電気が眩しくて開けられない瞼の端に、涙が滲んでいた。
ベッドに戻り、再び眠りの淵に落ちようという時、ふと視線を感じて、恐る恐る薄目を開ける。
暗闇の中に白い顔が浮いていた。
枕元に白い着物姿の石村千代子が立ち、由理阿の顔を上から覗き込んでいた。
全身の血が凍るような感覚に襲われた。そして、次の瞬間、金縛りに遭ったように身動きできなくなった。
唯一自由が利く目だけが、いつもうつむいていてはっきりと捉えることができなかった 女の顔を、正面から見据えていた。鼻筋の通った端整な顔立ちだった。
きりっとした切れ長の目が妖しく輝いたかと思うと、それはかっと見開かれていた。
身の危険を感じた由理阿は、とっさに逃げ道を探すべく、戸口に視線を投げてみて、思わず我が目を疑った。
そこには、割れた頭からどくどく止め処なく血を流し、かろうじて立っている、見るも無残な龍平の姿があった。あの事故の日に着ていた、白いスキッパーポロシャツは首から下が血で染まっている。
ベランダの方へ視線を移してみれば、もう一人いた。そこに立っていたのは、目に涙を浮かべた、見知らぬ若い女だった。
だらりと下がった右手には、カッターナイフが握られ、左手首からは、鮮血がぽたぽたと滴り落ちている。床に溜まっている真っ赤な血は、漆黒に変色しつつある。
「ねえ、知ってる? この世に偽りのない人間なんていないんだよ。ねえ、知ってた? この世に下心のない人間なんていないってこと。みんな仮面被ってるだけだよ。本当は、あたし死ぬのが怖くてたまんなかったんだ。人間の心を持たない、人間の仮面被った奴らに傷つけられて、生きてくことも苦しくてたまんなかったけど、自殺する勇気なんてなかった------それなのに、自分の体を傷つけてたのは、あたしの心がとっても傷つきやすかったから。手首から流れ出る血の涙しか、あたしの心を静めてくれるものはなかった------」
舞台女優のように感情を込めて独白すると、口を噤んだ。
しーんとした静寂が戻った。
三人は、言葉を交わさずに意思疎通を図っているようだ。
由理阿は自分の知らないところでどんな話が進んでいるのか不安に怯える。
枕元の目覚まし時計の秒針が刻む音が、耳を刺すように響いてくる。
龍平がドアを開けて逃がしてくれなければ、もう逃げ道はない。でも、由理阿がちらりちらりと視線を投げ掛けてみても、龍平は視線を返そうともしない。
そのうち、一瞬にして視界全体が灰色がかったと思うと、かぶりつきで見ているような迫力で、三人の登場人物がクローズアップで迫ってくる。
奇妙な感覚に捕らわれながらも、由理阿は同じ状況に囚われ続けていた。すぐにはそれが夢と気づかずに。
逃げ場がないという危機感が由理阿の生体防御反応を作動させ、由理阿を夢に誘ったのだが、すでに現実と夢の境界線は崩れ去っていたのだ。
突然、、石村千代子が他の二人に目配せをしたかと思うと、リストカッターの女に押さえつけられ、龍平にいきなり左手首をリストカットされた。心の準備ができていなかったため、抵抗したり、防御することなどできなかった。
由理阿があまりの激痛で飛び起き、手首から生暖かい物が滴っているのを目にした時には、すでに時遅し。薄れていく意識の中で、脳裏に龍平の姿が浮かぶ。
龍平をちっとも怨んでなんかいなかった。どうせ殺されるのなら、龍平の手に掛かってよかったと思った。
とうとうあたしの番が回ってきた------やっぱり夢は現実になったんだ。小太刀の代わりにカッターナイフだけど、夢と現実の両方で、刃物で殺されることになるなんて------今頃になってやっとわかった、どうして自分がいつも薄くて尖った物を恐れてきたか。
由理阿の脳裏にあの夢の中の神社のシーンが甦ってきた。
白衣、袴姿の男が小太刀をさっと抜いた。末広の青白い顔がクローズアップで迫ってくる。
ドクドクと自分の心臓が刻む激しい鼓動が、耳に響いてくる。
すーっと体の中に入ってきた冷たい物と入れ替りに、腹を押さえた指の間から生暖かい物が流れ出た。
不意に石村千代子の声がした。耳から聞こえてきたというより、頭の中に直接響いてきた感じだ。
「あなたを許すわけにはいきませぬ。自分の犯した過ちを死んで償ってくださいな」
それだけ言うと、女はさっと顔を上げた。
その顔が由理阿のうつろな瞳に映っている。
綺麗な鼻筋は曲がっていて、顔全体が歪んで見える。
前世のわたしの不注意で正雄君を死なせてしまったことは、よくわかりました。その罪を償うために、わたしは命を奪われたのですね。
由理阿は自分の宿命を受け入れ、静かに息絶えた。
もう散々! こうなれば、ここを出て行くしかない。沙羅の言うように、このアパートは呪われてる。あした実家に帰ったら、引越しすることを伝えよう。そして、ここに戻ってきたら、すぐにアパート探しを始めよう。
ソファに横になり引越しに思いを巡らせているうちに、由理阿は眠りの淵に落ちていった。
どれくらい時間が経ったのだろうか?
「あなたの魂を抜きます。よろしいですか?」
不意に耳元で子どもの声がした。
はっとして上半身を起こそうとしても、体が動かない。とてつもなく重い。恐る恐る薄目を開けると、体の上に血の気のない白い顔の子どもが乗っていた。
おとなしい声からは想像もできないような、物凄い形相で睨んでくる。馴染みのない顔だったが、その染みだらけのランニングには確かに見覚えがあった。いつもうつむいたままで顔がよく見えなかったあの男の子、石村正雄に違いなかった。
目を合わさず必死で命乞いする。
「そんなことしないで、お願いだから。前世のあたしが神社で振り向いてしまったから、君を死なせることになってしまったことは、本当に悪かったと思ってる。そもそも間引きをして日の浅いあたしが、君を連れて神社に参るべきじゃなかったこともわかってる。でも、どうしてそのことで現世のあたしが責められなきゃならないの? お願い。殺さないで。お願い。命だけは助けて」
そこで目が覚めた。
あぁ、夢でよかった!
ほっと安堵の胸を撫で下ろしたのも束の間、子どもが再び耳元で囁く。
「あなたはもう死んでいます。あなたはぼくにしたことの罪を償わなければなりません」
死にたくない。まだ夢の中にいるのかもしれない。覚めることさえできれば------早く現実に戻らなければ。
頭の片隅でそう思った瞬間、信号機のメロディーが聞こえてきた。
通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細道じゃ
天神様の 細道じゃ
ちょっと通して 下しゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ
この子の七つの お祝いに
お札を納めに 参ります
由理阿が横断歩道を半分ほど渡った時、反対側に石村千代子が現れた。夕暮れの薄闇に包まれ、地面から少し上の空間に浮いていた。
薄汚れた白い着物の胸の辺りには、血がべっとり付着し、口元からも血が流れていた。喀血したようだが、うつむいたままで表情をうかがい知ることはできない。
女はすーっと滑るように由理阿の方に向かって来る。風が吹いているのに、髪は少しもなびいていない。
ぞくぞくっと血も凍るような戦慄が全身を駆け抜けた。
引き返そうかと振り向こうとした瞬間、首と喉に締めつけられるような痛みを覚えた。またしても赤ん坊が背後からしがみついているような感覚だ。
前進することも後戻りすることもできない。立ち往生しているうちに点滅信号となり、連動してメロディーが変わった。
行きはよいよい 帰りは ピーポー ピーポー
由理阿は救急車の中に横たわっていた。搬送中に意識が薄らいでいく。
意識が戻った時には、辺り一面暗闇だった。それでも、目が慣れてくると、仄かに灯る街灯の下、駅前のバス通りがぼんやりと浮かび上がってきた。
ここは前に一度来た所だ。前回よりも一層暗いような感じを受けるけれど。
白と黒しか色のない世界の人っ子一人いない通りを、恐る恐る歩いていると、いつの間に現れたのか、濃い色の猫が目の前を歩いている。自分に気がついたのか、突然立ち止まり、振り向いてこちらをじっと見つめている。
前と同じ猫なのか判断が付きかねる。違うような気もする。目を凝らして見ているうちに、闇の中に消えていった。
どこからともなくあのわらべ歌が聞こえてくる。信号機から流れてくるメロディーではない。どこかで姿なき男の子が歌っているらしい。石村正雄かもしれない。
通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細道じゃ
天神様の 細道じゃ
ちょっと通して 下しゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ
この子の七つの お祝いに
お札を納めに 参ります
どこから現れたのか、先ほどの猫が青信号の横断歩道を渡っている。
その時、「ピーポー、ピーポー」と救急車のサイレンが聞こえてきた。横断中の歩行者がいないことを確認すると、そのまま赤信号を突っ切って行ってしまった。
猫はどうなったのだろう?
赤信号に変わった横断歩道に何か落ちているようだ。その周りに濃い色の液体が溜まっている。
次の瞬間、ベランダから部屋の中を覗いていた。すぐに自分の部屋だと気がついた。サッシ戸を通り抜け、中に入ってみる。
枕元の目覚まし時計の秒針がカチカチ音を立てている以外は、ひっそりと静まり返っている。暗闇に蛍光塗料が塗られた針が浮かび上がっていた。午前2時49分だ。
部屋はいつもと何ら変わった様子はないようだ。それまで張り詰めていた神経がほっと 緩んだ途端、ふとベッドの人の膨らみに気づいた。
前回同様、誰かがベッドに横たわっていた。
こちらに背を向けているため、誰なのかわからない。そっと反対側に回り、顔を覗いてみると、自分に他ならなかった。
でも、前回と何かが違う。寝顔は死人のように真っ白で、寝息を立てていない!
死 ん で い る------。
一瞬、頭の中が真っ白になったが、胸の中にじわじわと染み込んでくる暗い絶望を、必死で拒む。
まさか、こんなことって------信じられない。夢に決まってる。夢から覚めることさえできれば-----。
頭の片隅で、妙に冷静にそんなことを考える。
由理阿は突然夢遊病者のようによろよろと起き上がり、トイレに入った。
あぁ、夢でよかった! あたし、まだ生きてるんだ!
トイレの電気が眩しくて開けられない瞼の端に、涙が滲んでいた。
ベッドに戻り、再び眠りの淵に落ちようという時、ふと視線を感じて、恐る恐る薄目を開ける。
暗闇の中に白い顔が浮いていた。
枕元に白い着物姿の石村千代子が立ち、由理阿の顔を上から覗き込んでいた。
全身の血が凍るような感覚に襲われた。そして、次の瞬間、金縛りに遭ったように身動きできなくなった。
唯一自由が利く目だけが、いつもうつむいていてはっきりと捉えることができなかった 女の顔を、正面から見据えていた。鼻筋の通った端整な顔立ちだった。
きりっとした切れ長の目が妖しく輝いたかと思うと、それはかっと見開かれていた。
身の危険を感じた由理阿は、とっさに逃げ道を探すべく、戸口に視線を投げてみて、思わず我が目を疑った。
そこには、割れた頭からどくどく止め処なく血を流し、かろうじて立っている、見るも無残な龍平の姿があった。あの事故の日に着ていた、白いスキッパーポロシャツは首から下が血で染まっている。
ベランダの方へ視線を移してみれば、もう一人いた。そこに立っていたのは、目に涙を浮かべた、見知らぬ若い女だった。
だらりと下がった右手には、カッターナイフが握られ、左手首からは、鮮血がぽたぽたと滴り落ちている。床に溜まっている真っ赤な血は、漆黒に変色しつつある。
「ねえ、知ってる? この世に偽りのない人間なんていないんだよ。ねえ、知ってた? この世に下心のない人間なんていないってこと。みんな仮面被ってるだけだよ。本当は、あたし死ぬのが怖くてたまんなかったんだ。人間の心を持たない、人間の仮面被った奴らに傷つけられて、生きてくことも苦しくてたまんなかったけど、自殺する勇気なんてなかった------それなのに、自分の体を傷つけてたのは、あたしの心がとっても傷つきやすかったから。手首から流れ出る血の涙しか、あたしの心を静めてくれるものはなかった------」
舞台女優のように感情を込めて独白すると、口を噤んだ。
しーんとした静寂が戻った。
三人は、言葉を交わさずに意思疎通を図っているようだ。
由理阿は自分の知らないところでどんな話が進んでいるのか不安に怯える。
枕元の目覚まし時計の秒針が刻む音が、耳を刺すように響いてくる。
龍平がドアを開けて逃がしてくれなければ、もう逃げ道はない。でも、由理阿がちらりちらりと視線を投げ掛けてみても、龍平は視線を返そうともしない。
そのうち、一瞬にして視界全体が灰色がかったと思うと、かぶりつきで見ているような迫力で、三人の登場人物がクローズアップで迫ってくる。
奇妙な感覚に捕らわれながらも、由理阿は同じ状況に囚われ続けていた。すぐにはそれが夢と気づかずに。
逃げ場がないという危機感が由理阿の生体防御反応を作動させ、由理阿を夢に誘ったのだが、すでに現実と夢の境界線は崩れ去っていたのだ。
突然、、石村千代子が他の二人に目配せをしたかと思うと、リストカッターの女に押さえつけられ、龍平にいきなり左手首をリストカットされた。心の準備ができていなかったため、抵抗したり、防御することなどできなかった。
由理阿があまりの激痛で飛び起き、手首から生暖かい物が滴っているのを目にした時には、すでに時遅し。薄れていく意識の中で、脳裏に龍平の姿が浮かぶ。
龍平をちっとも怨んでなんかいなかった。どうせ殺されるのなら、龍平の手に掛かってよかったと思った。
とうとうあたしの番が回ってきた------やっぱり夢は現実になったんだ。小太刀の代わりにカッターナイフだけど、夢と現実の両方で、刃物で殺されることになるなんて------今頃になってやっとわかった、どうして自分がいつも薄くて尖った物を恐れてきたか。
由理阿の脳裏にあの夢の中の神社のシーンが甦ってきた。
白衣、袴姿の男が小太刀をさっと抜いた。末広の青白い顔がクローズアップで迫ってくる。
ドクドクと自分の心臓が刻む激しい鼓動が、耳に響いてくる。
すーっと体の中に入ってきた冷たい物と入れ替りに、腹を押さえた指の間から生暖かい物が流れ出た。
不意に石村千代子の声がした。耳から聞こえてきたというより、頭の中に直接響いてきた感じだ。
「あなたを許すわけにはいきませぬ。自分の犯した過ちを死んで償ってくださいな」
それだけ言うと、女はさっと顔を上げた。
その顔が由理阿のうつろな瞳に映っている。
綺麗な鼻筋は曲がっていて、顔全体が歪んで見える。
前世のわたしの不注意で正雄君を死なせてしまったことは、よくわかりました。その罪を償うために、わたしは命を奪われたのですね。
由理阿は自分の宿命を受け入れ、静かに息絶えた。