行きはよいよい 帰りはピーポーピーポー
 日中のうだるような暑さが続いていても、夕闇が迫る時刻は日増しに早くなっている。夏の終わりがそれほど遠くないという知らせだ。
 由理阿が憔悴した顔で踏切を渡ろうとした頃には、辺り一面に薄暗くなっていた。
 遮断機が下りてきた瞬間、踏切脇に置かれた、白い花束に視線が吸い寄せられた。
 一目で、供えられてからそれほど時間が経過していないことがわかる。昨夜の帰宅時にはなかった気がする。今朝の出勤時には、反対方向から来たため、視界に入らなかったのかもしれない。自分が知らないだけで、最近踏切事故でもあったのだろうか? 何だか嫌な感じがしてきた。
 遮断機が上がった瞬間、由理阿は自分でも信じられない行動に出ていた。踏切を渡ろうともせずに、駅の方へ引き返していたのだ。ほどなく駅前交番が視界に入ってきた時、自分が何をしようとしているのか悟った。越して来てから一度も立ち寄ったことのない交番へ、ためらうこともなく足が独りでに進んでいく。
「あの――、ちょっとお聞きしたいんですけど------、あの踏切の脇に供えられた花束が気になって------、最近踏切事故とかあったんですか?」
 警官の姿が目に入ってくるなり、勝手に言葉が口を突いて出た。
「あっ、あのことっすか。昨夜飛び込み自殺があったんっすよ。新聞やテレビでも報道されてましたよ。自殺があったのが午後9時頃で、列車が現場検証のため約1時間停止。上下線に遅れが出ましたよ。まあ、ラッシュ時間を外してくれたから、よかったようなものの------」
 見たところ、20代後半だろうか? きちんと帽子を被った警官は、間髪を入れずにはきはき答えた。
「えっ、そうだったんですか------。どうも------」
 それだけ言うと、由理阿は踵を返していた。
 やっぱり------。
 足を進めながら心の中で呟いていた。
 昨夜はそんなことがあったとは露知らず、電車に乗ったのが、午後11時半頃。あの時には正常に運行していたように思う。
 踏切まで戻ってくると、ちょうど警報機が作動するところだった。
 向こう側の夕闇の中に若い女の姿があった。目で見ているというよりも、直接意識の中に映像が入り込んできたような感じがした。自分より5歳くらい年上だろうか? 清楚な顔立ちだ。白のシフォンワンピースの肩にベージュの長い髪が掛かっている。
 そこまで女の観察を続けていた由理阿の背筋に悪寒が走った。
 一瞬、我が目を疑ったが、目の前の現実を認めざるを得なかった。
 女は地面に立っていなかった------。少し上に浮いていた。
「ぎゃあああ――っ!」
 次の瞬間、列車が通過する際、女の絶叫が猛烈な勢いで由理阿の脳裏を駆け抜けた。
 踏切の反対側の女の口から発せられたものだろうか?
 その時すでに女の姿は消えていた。
 由理阿は冷静を装っていたが、顔からみるみる血の気が失せていき、恐怖がそれに取って代わっていく。徐々に濃さを増していく闇の中で女が待ち構えているような気がして、遮断機が上がっても、なかなか足が前に出ない。踏切を渡って行く人たちが不審そうな目を向けていく。
 恐そる恐そる踏み出した右足が、地面に付くか付かないかの瞬間、由理阿は息が止まりそうになった。突然どこからともなく姿を現した女が、すーっと横を追い抜いていったのだ。背筋が凍りつき、その場で立ちすくむ。
 後ろ姿を追っていると、音もなく飛んできた、無数の黒い弓矢のような物が、次々と背中に突き刺さった。女はがくんと前へのめり、次の瞬間、再びその姿を消した。
 振り向いてみても、そこにいたのは、コンビニの袋をさげた若いカップルだけだった。射手の姿などどこにもなかった。
 この女が昨夜ここで命を落とした女だとしたら、もしかしたら、自殺じゃなかったんじゃないのか? 
 ふとそんな疑問が頭をもたげてくると、由理阿は自分まで何かおぞましい事件に巻き込まれたような、嫌な予感がしてきた。
 震える足を引きずり、どうにか踏切を渡りきったところで、ふとアパートの自分の部屋 を見上げた。直線距離にして5メートルくらいだろうか? 目と鼻の先だ。
 蔦に被われたチョコレートブラウンの外壁は風化がひどく、かなり色褪せている。目を凝らしてよく見ると、全面一様に変色しているわけではなく、染みのように所々色が違う。
 遠い昔に異国で建てられ、時空を超えてやってきたような、一種異様な雰囲気が、建物全体を覆っている。実際はせいぜい築30年といったところだろうに------。
 その場を立ち去ろうとした時、自分の部屋のベランダの中を駆け回っている猫を、視線が捕らえていた。エアコンの室外機と洗濯機に上っては床に下りるという単純な動作を繰り返している。
 どこの猫だろう? 今まで猫がベランダに侵入することなんてなかったのに------。
 柵に何かが引っ掛かっているようだ。暗闇の中でそれは青白い光を放っていた。目を逸らそうにも、視線が吸い寄せられてしまう。
 まさか------。
 もはや視線を通さずとも、はっきりとした映像が意識の中に飛び込んできた。

 由理阿がアパートの階段の前に立った時、破れそうなくらい心臓が高鳴っていた。それでも、足を引きずって上がる。震える手でドアを開け、電気を点け、机の一番下の引き出しから懐中電灯を取り出し、ふらつく足をベランダ目掛けて進ませる。
 昨日の朝から一度も開けられていないサッシ戸を一気に引く。
 妙に生暖かい空気が流れ込んできて、血と肉が腐ったような臭いが漂った。
 ベランダに出て、懐中電灯で床を照らし、恐る恐る視線を落とす。柵の最下部にかろうじて引っ掛かっている肉塊が視界に入ってきた時、ぞくぞくっと血も凍るような戦慄が全身を駆け抜けた。そのままよろよろと後退りし、部屋に入った。急いでサッシ戸を閉めると、床にへたり込んだ。残像が頭の中でちらちら揺れていた。

 由理阿に続いて、懐中電灯を握った警官が階段を上る。
 定期的に受持ち地区内の家庭や事業所を訪問して、防犯指導をしたり、警察に対する要望・意見を聞いて回る、「巡回連絡」と呼ばれる業務をこなしているので、このアパートへ来ることもあった。
 だが、現在由理阿が入居中の部屋に寄ることはなかった。長い間借り手のないままになっていたから。こんな時間帯に来ることもなかった。巡回連絡は午前中の活動だから。
 由理阿の部屋の前に立つと、2年前の現場検証の戦慄が甦ってきた。当時は警察学校卒業後、交番勤務に就いたばかりで、警察の仕事を覚えている最中だった。
 まさかこの部屋に戻ってくることになろうとは、夢にも思わなかった。
「失礼しまーす」
 いざ意を決してドアを開ける。狭い戸口で靴を脱ぎながら、一人暮らしの若い女性の部屋が醸し出す独得の香りに、一瞬躊躇いを覚えた。
「あの――、越して来られてどれくらいっすか? 定期的に各家庭を訪問させていただいているんですが、この部屋随分長い間空き部屋になってたんっすよ」
 どうしても白いキャミソールワンピース姿にばかり視線が行ってしまう。由理阿に悟られないようにそっと生唾を飲み込む。
「もう2ヶ月になりますけど」
「住み心地はどうっすか?」
「駅に近いし、急行も停まるし、都心に出るのに便利だし、家賃も安くて、満足してます」
「そうっすか。それはよかった------」
 ごく普通のやり取りなのに、由理阿には警官の態度が腑に落ちない。何か言いたいことがあるのに、言い出しかねているという印象が拭えない。
 伏し目がちに部屋を横切ろうとした警官の目は、壁に貼られたホラー映画のポスターに釘付けになった。
 月明かりの下、沼のほとりの大木に向かって立つ女。白い長襦袢に身を包み、藁人形に五寸釘を打ち込む。死人のように白い顔に深紅の唇が映える。
「『フラッシュバック』。丑の刻参りか」
 そっと呟く。
 こんなにいい女に呪い殺されたら、本望だろうな。
 ふとそんな思いが頭をよぎり、思わず頭を振って打ち消した。
 白い手袋をはめてベランダに出ると、すぐに懐中電灯で床を照らした。
 やっぱり完全には消せなかったんだ------。まあ何も知らない人が見ると、気にも留めないかもしれないけれど。 
 心の中で呟いていた。
「どうかしたんですか?」
 あの日の記憶が呼び覚まされてきたが、心配そうな由理阿の声に、意識は現実に呼び戻された。
「いや、別に------」
 手のひらで口を押さえながら答える。
 嘔吐を催したのは、捜している足首から漂ってくる腐敗臭のせいではなく、あの日ベランダ全体を覆っていた、この世のものとは思えない異臭が記憶の底から甦ったからだ。ベランダの床に広がる惨状には、目を覆わざるを得なかったが、息もできないほどの臭気には、鼻と口をハンカチで押さえるくらいでは対処できなかった。今でも時折、何の前触れもなく意識の奥底から浮き上がってきては、吐き気を催させるくらい強烈なものだった。
「あっ、その洗濯機の後ろなんですよ」
 そう言いながらも、由理阿は椅子に座ったままだ。ベランダに近づこうとはしない。
「あっ、これっすね」
 込み上げる吐き気を押し殺したような声がした。
「昨日の飛び込み自殺者のに違いない。四方に飛び散った肉片を、ビニール袋を持って拾って歩いたんっすけど、左足首が見つかってなかったんっすよ。これで仏さんも成仏できればね------。それにしても、暗いのによく下から見えたもんっすね」
 両手で慎重に足首を取り、ビニール袋に収めた。平静を装っていたが、脳裏には昨夜の肉片回収シーンが、まざまざとフラッシュバックしていた。

 線路の至る所に、おびただしい量の血とともにぐちゃぐちゃの肉片が散らばっていた。
耳や鼻などの顔の断片が転がっている。手や足の一部も目に入る。
 激しく込み上げてくる嘔吐感を抑えながら、バラバラになった礫死体を回収している間、それが、つい先ほどまで生きていた人間だということが信じられなかった。
 自分ならこんな無残な姿を公衆の面前にさらしたくはない。自殺しないにこしたことはないが、もしいつか自殺を決心したとしても違う方法を選ぶだろう。
 いつしかそんな考えに取りつかれていた。

 
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