あいのことだま
麻人が杏奈の耳元で何か言っている。


「…杏奈、愛してる。」

杏奈は驚く。

その言葉は、杏奈が好きな男から一番言われたかった言葉だ。


身体中がしびれた。
こんな感覚は初めてだった。


目を瞑りせがむ。

「…よく聞こえない。もう一回言って。ちゃんと言って…」

麻人は少し身体を放し、杏奈の目を見て言った。

「愛してる!」

杏奈は嬉しくて涙が出てきた。
「…ほんと?」


麻人は真剣な眼差しで言った。


「俺は杏奈がいないと、生きてはいけない。」


麻人のその言葉は愛の言霊となり、
「愛してる」という言葉よりも深く鮮烈に杏奈の胸に響いた。


杏奈は溢れる涙を指先で拭いながら決意した。

母親になると。





「へえ…神津島って海きれいだなあ。
釣りしたいなあ。」


竹芝桟橋から乗った高速船が神津島に着き、桟橋から降り立つと篤は嬉しそうに言う。


萌子も篤も神津島は初めてだった。

五月下旬のエメラルドグリーンの海は燦燦とした陽光を受け、神々しいほどに煌めいていた。

「杏奈は一昨年行ったことあるって。」
萌子がいうと、

「和也がいる民宿だったりしてな。」
と篤は冗談を言った。



萌子と篤が二人だけで遠出をするのは初めてだ。

子供たちにお金が掛かるから、新婚旅行にも行かず、入籍だけで済ませた。

こんな形で二人で美しい海を見るなんて思ってもいないことだった。


「今って何釣れるんだろう。メジナかなあ。」

桟橋から海を覗き込み、篤が言う。

釣り好きな篤は、和也が中学生の頃、よく釣りにつれていってくれた。

おかげで和也も釣りが好きになり、自転車で近くの海釣り公園に友達と釣りに行ったりしていた。


副工場長となった今、篤は休日に釣りなどいかなくなり、家でいつまでも寝ていた。

仕事が大変なのだろう…
萌子は篤が可哀想になった。

一時期でも一緒の職場にいたことがある萌子には篤の重圧がわかる。

海産物を扱うから工場内はいつでも冷んやりと寒く、篤はその中を重いダンボールなどを持って走り回っていた。

パートのおばさん達と上司に挟まれて気苦労は絶えないし、楽な仕事ではない。

こんな時でなければ、思い切り釣りをさせてやりたかった。


今日は土曜で、篤は会社が休みだったが、萌子はパートを休んだ。

せっかく神津島に行くのにこんな用件なのが萌子には悔しかった。



留美の母の亡夫の実家である「海淳荘」という民宿はすぐに見つかった。

その民宿は前浜のすぐ近くにあり、白いこじんまりとした建物だった。

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