隣人M
海辺の記憶
椎名はそこまで回想して、軽くため息をついた。そこから先を思い出すのが辛くなった。だが、次の瞬間、彼の意識は別の場所に飛んでいた。
「すみません、ボール取ってくださーい!」
……そう、あの時は驚いた。ボールが――バスケットボールが転がってくるなんて。
砂浜でバスケをしている奴なんて、初めて見た。他の奴らはみんなビーチバレーをしているのに、一人で簡単なゴールを作って黙々と練習していた、俺と同じ若い兵士。
だけど、シュートの腕はお世辞にも上手とは言えなかった。俺はボールを投げて返す代わりに、その位置からシュートしてみせた。その兵士が、目を見張って弧を描くボールを追っているのがよく分かった。
パスッと軽い音を立てて、ボールがゴールに入ったのと、あいつが叫んで小躍りしたのはほぼ同時だった。
「すごい!すごいよ!ボールが意思を持っているみたいだ!」
あいつは今網膜に焼き付けたばかりの、俺のシュートフォームを何回かやってみていた。それから、俺の視線に気づいたらしく、照れたように笑って、走り寄ってきた。
「失礼、俺、結城克己。肩章から見ると、君も、俺と同じ階級みたいだね」
克己は握手を求めてきた。俺はにっと笑ってみせてから、固く握り返した。
「俺は、神楽夏彦。あのさ、レイアップやってみせてよ。見てみたい」
「ドリブルは、砂浜だからできないけど……」
走って、跳んで、シュート。跳んだところまではよかった。本当に、ふわりと跳んだんだ。しかし、手から離れたボールはゴールからそれて、反対側に落ちた。
「あのな、力みすぎなんだ。だからレイアップだって入らない。もっと肩の力を抜け。そうだ、そうそう。
もう一度克己はやってみせた。今度はうまくいった。克己は喜んで俺のところに走ってきた。
「ありがとう。今まであんまり成功しなかったんだ。今度、俺たちの舞台の中でバスケの試合があって、スタメンなんだけど、シュートが下手なのが恥ずかしくて練習してたんだ。ジャンケンで決めたスタメンだけどね」
克己は、ふっと息をついた。そして、汗をぬぐいながら言葉を続けた。
「どうしてここへ?ビーチバレー?違うかな。君くらいバスケがうまかったら、今度の試合は危ういな」
「試合って、今度の日曜のやつか?じゃあ君、同じ部隊なんだな」
「そうなんだね。でも、本当は練習の予定があるんだけど、明日ちょっと用事があって部隊を抜けるから、今日はもう少し頑張るよ。まあ、一日で戻るけどね。少尉殿に言ったら、16のくせにって怒られたよ」
それから俺たちは仲良くなった。何時間も二人で練習したけど、あいつはあまり上達しなかった。くさっている克己に、俺はこう言って慰めた。
「あのなあ。シュート入らないくらいでめそめそするなってば。人生は厳しいんだぜ。死ぬ気でやらなきゃ、成功しないんだ。でもよ、がんばってがんばってやって点が入ったときくらい嬉しいときってないぜ?だからさ、がんばろうって思わないか?」
そこまで言ったとき、向こうで誰かが手を振って俺を呼んでいるのに気づいた。俺は腰を浮かせた。
「ありがとう!ちょっとした名言だな」
克己は、にっこりと、本当にまぶしい笑みを浮かべた……。
そして、二人は急速に仲良くなり、舞台のレクレーションであるバスケの試合で、出会ったのが夕夏だった。
それにしても、あいつはどこへ行くつもりだったんだろう。用事……少尉殿に、16のくせにと言われるような用事……。
「あっ!そういえば……」
椎名は重大なことを思い出した。忘れていた。あの後、用事が済んだと言って克己が現れた時に手渡されたものがあったのだ。
「これ、やるよ」
「やるよって言われても、お前、これは……」
「いいから。俺らが24歳になって兵役義務が切れたら、その年の昨日、午後2時にシャンパニオン公園に行って、そこにいる人にこれを渡すんだ。俺からだとは言うな。お前からのプレゼントなんだ。取っておいてくれ」
笑って、でも寂しげに言った克己。俺は深く考えずに受け取った。なぜ、「あれ」を……まさか、あいつは……。
「コンピューター」
椎名は力強く言った。心療用のインカムから、コンピューターの澄んだアルトの声が聞こえてきた。
「こちら外界。ご用件を」
「今から帰る。1人分、1分後に転送してくれ」
「了解しました」
通信は切れた。椎名は急いで転送用のシールドを張った。何気なく白衣のポケットを探る。チャリッと音がして、冷たいものが指に触れた。出してみると、デスクの、いつもは開けない引き出しのカギだった。開業したての頃に、わざわざカギを作った引き出し。あそこに「あれ」はあるはずだ。椎名はぐっとカギを握りしめた。その金属らしい冷たさが、ほてった皮膚に心地よくも悲しかった。
「こちら外界。ただいまから転送開始します」
椎名は掌を広げた。小さなカギの輪郭が、少しぼやけて、ぶれて見えた。あと一日……夕夏がこだわったそのわけが、今わかったような気がした。
克己。だからお前はバカなんだよ。自分の思いくらい、大切にしろよ……。
椎名は遠退く意識の中で克己に語りかけていた。
(2014.5.8)
「すみません、ボール取ってくださーい!」
……そう、あの時は驚いた。ボールが――バスケットボールが転がってくるなんて。
砂浜でバスケをしている奴なんて、初めて見た。他の奴らはみんなビーチバレーをしているのに、一人で簡単なゴールを作って黙々と練習していた、俺と同じ若い兵士。
だけど、シュートの腕はお世辞にも上手とは言えなかった。俺はボールを投げて返す代わりに、その位置からシュートしてみせた。その兵士が、目を見張って弧を描くボールを追っているのがよく分かった。
パスッと軽い音を立てて、ボールがゴールに入ったのと、あいつが叫んで小躍りしたのはほぼ同時だった。
「すごい!すごいよ!ボールが意思を持っているみたいだ!」
あいつは今網膜に焼き付けたばかりの、俺のシュートフォームを何回かやってみていた。それから、俺の視線に気づいたらしく、照れたように笑って、走り寄ってきた。
「失礼、俺、結城克己。肩章から見ると、君も、俺と同じ階級みたいだね」
克己は握手を求めてきた。俺はにっと笑ってみせてから、固く握り返した。
「俺は、神楽夏彦。あのさ、レイアップやってみせてよ。見てみたい」
「ドリブルは、砂浜だからできないけど……」
走って、跳んで、シュート。跳んだところまではよかった。本当に、ふわりと跳んだんだ。しかし、手から離れたボールはゴールからそれて、反対側に落ちた。
「あのな、力みすぎなんだ。だからレイアップだって入らない。もっと肩の力を抜け。そうだ、そうそう。
もう一度克己はやってみせた。今度はうまくいった。克己は喜んで俺のところに走ってきた。
「ありがとう。今まであんまり成功しなかったんだ。今度、俺たちの舞台の中でバスケの試合があって、スタメンなんだけど、シュートが下手なのが恥ずかしくて練習してたんだ。ジャンケンで決めたスタメンだけどね」
克己は、ふっと息をついた。そして、汗をぬぐいながら言葉を続けた。
「どうしてここへ?ビーチバレー?違うかな。君くらいバスケがうまかったら、今度の試合は危ういな」
「試合って、今度の日曜のやつか?じゃあ君、同じ部隊なんだな」
「そうなんだね。でも、本当は練習の予定があるんだけど、明日ちょっと用事があって部隊を抜けるから、今日はもう少し頑張るよ。まあ、一日で戻るけどね。少尉殿に言ったら、16のくせにって怒られたよ」
それから俺たちは仲良くなった。何時間も二人で練習したけど、あいつはあまり上達しなかった。くさっている克己に、俺はこう言って慰めた。
「あのなあ。シュート入らないくらいでめそめそするなってば。人生は厳しいんだぜ。死ぬ気でやらなきゃ、成功しないんだ。でもよ、がんばってがんばってやって点が入ったときくらい嬉しいときってないぜ?だからさ、がんばろうって思わないか?」
そこまで言ったとき、向こうで誰かが手を振って俺を呼んでいるのに気づいた。俺は腰を浮かせた。
「ありがとう!ちょっとした名言だな」
克己は、にっこりと、本当にまぶしい笑みを浮かべた……。
そして、二人は急速に仲良くなり、舞台のレクレーションであるバスケの試合で、出会ったのが夕夏だった。
それにしても、あいつはどこへ行くつもりだったんだろう。用事……少尉殿に、16のくせにと言われるような用事……。
「あっ!そういえば……」
椎名は重大なことを思い出した。忘れていた。あの後、用事が済んだと言って克己が現れた時に手渡されたものがあったのだ。
「これ、やるよ」
「やるよって言われても、お前、これは……」
「いいから。俺らが24歳になって兵役義務が切れたら、その年の昨日、午後2時にシャンパニオン公園に行って、そこにいる人にこれを渡すんだ。俺からだとは言うな。お前からのプレゼントなんだ。取っておいてくれ」
笑って、でも寂しげに言った克己。俺は深く考えずに受け取った。なぜ、「あれ」を……まさか、あいつは……。
「コンピューター」
椎名は力強く言った。心療用のインカムから、コンピューターの澄んだアルトの声が聞こえてきた。
「こちら外界。ご用件を」
「今から帰る。1人分、1分後に転送してくれ」
「了解しました」
通信は切れた。椎名は急いで転送用のシールドを張った。何気なく白衣のポケットを探る。チャリッと音がして、冷たいものが指に触れた。出してみると、デスクの、いつもは開けない引き出しのカギだった。開業したての頃に、わざわざカギを作った引き出し。あそこに「あれ」はあるはずだ。椎名はぐっとカギを握りしめた。その金属らしい冷たさが、ほてった皮膚に心地よくも悲しかった。
「こちら外界。ただいまから転送開始します」
椎名は掌を広げた。小さなカギの輪郭が、少しぼやけて、ぶれて見えた。あと一日……夕夏がこだわったそのわけが、今わかったような気がした。
克己。だからお前はバカなんだよ。自分の思いくらい、大切にしろよ……。
椎名は遠退く意識の中で克己に語りかけていた。
(2014.5.8)