隣人M

絆と狙撃手

「ただいま」


いきなり背後からぼそりと言った夕夏に、克己は驚いた。


「な、何だよ。びっくりした……」


「帰ってきたからただいまと言っただけだ。驚くことはない」


「ま、そうだけど」


克己は肩をすくめた。腰を下ろそうとしない彼女の厳しい横顔を見つめているうちに、克己は異変に気づいた。ほんの小さな変化。見落としそうな、表情のかすかな違い。


「あんた、どうかしたの。」


夕夏は不思議そうに克己を見た。


「顔が変わった。なんか、その……希望が見える。小さな夢。信じてはいないけど、心のどこかでそれを望んでいるような、複雑な感じ」


「本当にそう見えるのか」


「俺にはね」


克己は改めて夕夏の顔を見つめた。小つくりの、かわいらしい顔だ。雰囲気の全く違う、でもあの「夕夏」と同一人物だとすぐに分かる。夕夏も、彼の視線をまっすぐ受け止めていたが、言いにくそうに切り出した。


「お前を引き渡す約束を、一日延ばしてきた」


「どうして」


「あることを思い出した」


「よく椎名さんがOKしたね」


「そうだな」


「あることって?大事なことなんだろ?」


夕夏はそれには答えず、遠い目で彼方を見つめた。


「お前はあと一日で始末される。私がやらなくても、椎名がやるだろう。でも……死ぬな」


ふわりと甘いコロンの香りが漂った。風もないのに、夕夏の髪が少しなびく。


「生きていてほしい」


克己は何も言わずに夕夏を見上げた。彼女も何も言わなかった。ただ、すっと白い手を差しのべた。二人の手が、固く握りあわされた。



**************

椎名はデスクの前に立った。あの鍵を鍵穴に差し込み、静かに、確実にグッと回す。カチャリと冷たい音がした。少し震える手で、椎名はゆっくり引き出しを開けた。まるでその瞬間を大切に取り扱うかのように。


……あった。


クリーム色の小箱が、ひそやかにたたずんでいた。開けると、あの時克己の手から椎名に渡ったものが静かに眠っていた。それを見た瞬間、椎名の時の感覚が逆流する。涙が止まらない。しばらく忘れていた心と腕の古傷が心地よく痛む。


「明日の午後二時、シャンパニオン公園にこれを持っていけ……か。確か、明日は……」


「動かないで」


機械的な言葉が椎名にぶつけられた。はっと我に返ると、椎名に銃口が向けられていた。
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