隣人M
対峙
「何の真似だ」
「復讐よ」
かすかな笑みを浮かべた若き秘書――山口あすかは、一歩椎名に近づいた。
「何のために。誰の差し金だ」
「大勢の同志のために。私自身のために」
「同志?」
「何も知らないのね」
あすかは冷たく笑った。
「あんたたち、心療外科医の手術のせいで、両親は私を愛してくれなくなったわ。愛されない子どもが、どんなに悲しい思いをするか理解できる?」
「君も手術をしたはずだ。俺が、この手で」
「心療再生手術を受けたのよ。あんたの所に、秘書としてもぐり込むために」
「なるほど」
椎名はゆっくり頭を上げて、あすかに向かってうっすら笑みを浮かべた。その姿には、かつての高慢さはかけらも残っていなかった。笑みだけに、強がりが垣間見えた。
「動くなって言ったでしょう。撃つわよ」
「撃ちたければ勝手にすればいいよ。命なんて別に惜しくないね」
「……嘘」
あすかはもう一度構えた。練習通りに、テスト通りに。この日の、この瞬間のために厳しい訓練を積んできた。脳裏によぎるのは、優しかった頃の両親の顔だ。椎名たち心療外科医が憎かった。そんな子どもたちの組織に、あすかは誘われて入り、めきめきと力をつけた。そこには夕夏もいた。しかし、親友、夕夏が椎名の助手になってしまったことを嘆き、ますます彼を憎んだ。
しかし、あすかには分かっていた。夕夏の手術の「失敗」から感じ取った、椎名の愛。夕夏は気づいていなかったけれども。
「嘘なんかついていないさ」
「まあ、いいわ。聞きたいことがあるのよ。なぜ夕夏の手術を失敗させたの?」
「失敗させた?」
「そうよ。あなたはわざと夕夏の手術を失敗したのよ」
「失礼だが?」
椎名は語尾を上げて、じっとあすかを見つめた。目がなにかを尋ねている。あすかは、夕夏との関係を問われたものと解釈した。
「私は夕夏の親友。あの子の両親は、手術は受けていなかったけれど、戦争の犠牲になって、彼女が受けるべき愛情を受けていないのに変わりはないわ。だから、私たちの組織の一員になっていたの。でも、ある時彼女は脱退してしまった。無断でね。克己くんを助けるためだったわ。そして、ある公園で夕夏に出会って……」
「公園だって?」
「そう。今は廃墟のシャンパニオン公園で、一人たたずんでいたわ」
椎名は深くため息をついた。仕事の合間に彼女が何をやっているのか、同業者の誰も知らなかったのだ。助手として彼女を雇っている椎名でさえも。
一度、二人で心療プロジェクトチームに提出するレポートを書かなければならない時があった。椎名は、一生懸命下を向いて、何枚もの治療状況報告書と証明書を書く夕夏に、何気なく尋ねた。
「仕事がないときは、何をしているの」
「答える必要はない」
顔も上げずに、夕夏があっさり答えた。椎名は、彼女の流麗な特徴のある文字が、白くて厚めの紙にきちんと綴られていくのをしばらく眺めていた。
「なぜ」
「私の個人的なことだからだ。……この点では、感謝している、椎名」
「え?」
思わず聞き返しても、もうそれ以上会話が続くことはなかった。紅茶をすすりながら、目にかかる前髪を無造作にかきあげる夕夏の姿が、なぜか忘れられずに今に至っていた。
椎名は笑った。からからと声を立てて。腹の底からわき起こってくるおかしさをこらえきれない。
あすかはびっくりしたように目を見開いている。椎名自身にも、なぜおかしいのかよく分かっていなかった。おかしい、というより清々しい気分だった。もやもやが全て吹っ飛び、難しいパズルがぴたりと合わさって解けたような快感と幸福感。
心が再生している。椎名は確信した。――今度、チームに報告しなくてはいけないかな。しかし、無から再生したのか、戦争の記憶から派生したものなのか……
「なぜ笑うの。何がおかしいのよ!」
「いや……昔、夕夏から感謝している、と言われたことがあってね。その時は何のことかさっぱり分からなかった。しかし、今、君が答えを教えてくれた」
「何のことよ」
「克己との記憶があって、つまり、彼女に元の心が残っていたからこそ、シャンパニオン公園にいたんだよ。夕夏は、待っているんだ。そして、覚えているんだろう。明日の約束を……」
あすかは首をかしげている。――この子は暗殺者の器じゃないな。椎名はまた笑った。
夕夏を愛していたから、俺との記憶を失ってほしくないし、過去と裏表のささやかな幸せの思い出を残してほしい、と夕夏の手術を不成功に終わらせたのに。それが克己への思いを残すことになったとは皮肉だな。俺は思い上がっていた。最初からあの二人の間に入り込む隙なんてなかった。しかし……。
「とにかく、私は夕夏に出会って嬉しかった。でも、私はあなたも夕夏も消さなくてはいけないの」
「なぜ、夕夏を?!」
「あの子は心療外科技師になってしまった。私たちが最も憎む側の人間になってしまったのよ」
「しかし、それは!」
「分かってる。分かってるのよ。全ては克己くんを助けるため。でも、夕夏は許されない立場に立ってしまったの。たとえ親友であっても!」
あすかはほとんど泣きかかっていた。
椎名はうつむいた。
俺は、心療手術をすることが、人間の幸福だと思ってやってきた。しかし、どうだ?戦争はなくなったが、穏やかに見える日常で本当に幸せに生きている人間は一握りだ。愛情も優しさも欲望も悲しみも全てが争いの原因となり、醜さしか生まないと信じていた。その信念だけを頼りにしてきた。完璧な人間は矛盾を嫌うが、手術をしたこんな心の内面からふつふつと沸き上がるこの感情は、矛盾じゃないのか?
手を伸ばせば、そこに大切なものがある。愛することは、不完全な人間の弱み。相手を求めることで自分を満たそうとする。愛せないことは、完全な人間の弱み。相手を拒むことで自分を孤独に追い込んでいく。人間は、どちらを望んでいるのだろう。矛盾した内面を持つ人間。片面しか持たない俺たちは、むしろ不完全なのかもな。皮肉だな、克己……。
「夕夏の居場所は教えられない。しかし、あすか君。君の心が満たされるなら、俺を殺してくれ。これは、プライドなんだ。俺の信念……それを今、曲げてしまったら、俺がこれまで歩んできた人生は無意味になってしまう。例えそれが、間違っていたとしても」
いつの間にか、あすかは銃を下ろしていた。
私は、彼を責められるの?よかれと思ってやったこと、幸福になる術と信じてやったこと。この人は、自分が殺されることは自分のプライドだと言ったわ。正義や過ちは、一体誰が決めるのか。私が今、ここでこの人を殺したとしたら、一体正義なのや過ちなのか……。
「裏切り者」
低いささやきが、あすかの耳元で聞こえた瞬間、爆音が彼女の耳を貫いた。
「復讐よ」
かすかな笑みを浮かべた若き秘書――山口あすかは、一歩椎名に近づいた。
「何のために。誰の差し金だ」
「大勢の同志のために。私自身のために」
「同志?」
「何も知らないのね」
あすかは冷たく笑った。
「あんたたち、心療外科医の手術のせいで、両親は私を愛してくれなくなったわ。愛されない子どもが、どんなに悲しい思いをするか理解できる?」
「君も手術をしたはずだ。俺が、この手で」
「心療再生手術を受けたのよ。あんたの所に、秘書としてもぐり込むために」
「なるほど」
椎名はゆっくり頭を上げて、あすかに向かってうっすら笑みを浮かべた。その姿には、かつての高慢さはかけらも残っていなかった。笑みだけに、強がりが垣間見えた。
「動くなって言ったでしょう。撃つわよ」
「撃ちたければ勝手にすればいいよ。命なんて別に惜しくないね」
「……嘘」
あすかはもう一度構えた。練習通りに、テスト通りに。この日の、この瞬間のために厳しい訓練を積んできた。脳裏によぎるのは、優しかった頃の両親の顔だ。椎名たち心療外科医が憎かった。そんな子どもたちの組織に、あすかは誘われて入り、めきめきと力をつけた。そこには夕夏もいた。しかし、親友、夕夏が椎名の助手になってしまったことを嘆き、ますます彼を憎んだ。
しかし、あすかには分かっていた。夕夏の手術の「失敗」から感じ取った、椎名の愛。夕夏は気づいていなかったけれども。
「嘘なんかついていないさ」
「まあ、いいわ。聞きたいことがあるのよ。なぜ夕夏の手術を失敗させたの?」
「失敗させた?」
「そうよ。あなたはわざと夕夏の手術を失敗したのよ」
「失礼だが?」
椎名は語尾を上げて、じっとあすかを見つめた。目がなにかを尋ねている。あすかは、夕夏との関係を問われたものと解釈した。
「私は夕夏の親友。あの子の両親は、手術は受けていなかったけれど、戦争の犠牲になって、彼女が受けるべき愛情を受けていないのに変わりはないわ。だから、私たちの組織の一員になっていたの。でも、ある時彼女は脱退してしまった。無断でね。克己くんを助けるためだったわ。そして、ある公園で夕夏に出会って……」
「公園だって?」
「そう。今は廃墟のシャンパニオン公園で、一人たたずんでいたわ」
椎名は深くため息をついた。仕事の合間に彼女が何をやっているのか、同業者の誰も知らなかったのだ。助手として彼女を雇っている椎名でさえも。
一度、二人で心療プロジェクトチームに提出するレポートを書かなければならない時があった。椎名は、一生懸命下を向いて、何枚もの治療状況報告書と証明書を書く夕夏に、何気なく尋ねた。
「仕事がないときは、何をしているの」
「答える必要はない」
顔も上げずに、夕夏があっさり答えた。椎名は、彼女の流麗な特徴のある文字が、白くて厚めの紙にきちんと綴られていくのをしばらく眺めていた。
「なぜ」
「私の個人的なことだからだ。……この点では、感謝している、椎名」
「え?」
思わず聞き返しても、もうそれ以上会話が続くことはなかった。紅茶をすすりながら、目にかかる前髪を無造作にかきあげる夕夏の姿が、なぜか忘れられずに今に至っていた。
椎名は笑った。からからと声を立てて。腹の底からわき起こってくるおかしさをこらえきれない。
あすかはびっくりしたように目を見開いている。椎名自身にも、なぜおかしいのかよく分かっていなかった。おかしい、というより清々しい気分だった。もやもやが全て吹っ飛び、難しいパズルがぴたりと合わさって解けたような快感と幸福感。
心が再生している。椎名は確信した。――今度、チームに報告しなくてはいけないかな。しかし、無から再生したのか、戦争の記憶から派生したものなのか……
「なぜ笑うの。何がおかしいのよ!」
「いや……昔、夕夏から感謝している、と言われたことがあってね。その時は何のことかさっぱり分からなかった。しかし、今、君が答えを教えてくれた」
「何のことよ」
「克己との記憶があって、つまり、彼女に元の心が残っていたからこそ、シャンパニオン公園にいたんだよ。夕夏は、待っているんだ。そして、覚えているんだろう。明日の約束を……」
あすかは首をかしげている。――この子は暗殺者の器じゃないな。椎名はまた笑った。
夕夏を愛していたから、俺との記憶を失ってほしくないし、過去と裏表のささやかな幸せの思い出を残してほしい、と夕夏の手術を不成功に終わらせたのに。それが克己への思いを残すことになったとは皮肉だな。俺は思い上がっていた。最初からあの二人の間に入り込む隙なんてなかった。しかし……。
「とにかく、私は夕夏に出会って嬉しかった。でも、私はあなたも夕夏も消さなくてはいけないの」
「なぜ、夕夏を?!」
「あの子は心療外科技師になってしまった。私たちが最も憎む側の人間になってしまったのよ」
「しかし、それは!」
「分かってる。分かってるのよ。全ては克己くんを助けるため。でも、夕夏は許されない立場に立ってしまったの。たとえ親友であっても!」
あすかはほとんど泣きかかっていた。
椎名はうつむいた。
俺は、心療手術をすることが、人間の幸福だと思ってやってきた。しかし、どうだ?戦争はなくなったが、穏やかに見える日常で本当に幸せに生きている人間は一握りだ。愛情も優しさも欲望も悲しみも全てが争いの原因となり、醜さしか生まないと信じていた。その信念だけを頼りにしてきた。完璧な人間は矛盾を嫌うが、手術をしたこんな心の内面からふつふつと沸き上がるこの感情は、矛盾じゃないのか?
手を伸ばせば、そこに大切なものがある。愛することは、不完全な人間の弱み。相手を求めることで自分を満たそうとする。愛せないことは、完全な人間の弱み。相手を拒むことで自分を孤独に追い込んでいく。人間は、どちらを望んでいるのだろう。矛盾した内面を持つ人間。片面しか持たない俺たちは、むしろ不完全なのかもな。皮肉だな、克己……。
「夕夏の居場所は教えられない。しかし、あすか君。君の心が満たされるなら、俺を殺してくれ。これは、プライドなんだ。俺の信念……それを今、曲げてしまったら、俺がこれまで歩んできた人生は無意味になってしまう。例えそれが、間違っていたとしても」
いつの間にか、あすかは銃を下ろしていた。
私は、彼を責められるの?よかれと思ってやったこと、幸福になる術と信じてやったこと。この人は、自分が殺されることは自分のプライドだと言ったわ。正義や過ちは、一体誰が決めるのか。私が今、ここでこの人を殺したとしたら、一体正義なのや過ちなのか……。
「裏切り者」
低いささやきが、あすかの耳元で聞こえた瞬間、爆音が彼女の耳を貫いた。