隣人M
椎名との対話
「やあ」
克己は反射的に後ろへ下がった。そんな彼に、椎名は笑顔を向けた。
「大丈夫。消しに来たんじゃない。少し話をしないか」
椎名はゆっくりと左を向き、管理人室のドアを開けた。克己は警戒しながらも部屋に入った。以前と変わらないその部屋は、塵も見当たらず、そこはかとなく漂うコーヒーの香りが懐かしく、克己は大きく息を吸い込んだ。
椎名は何事か呟きながら紅茶を入れていた。やがて克己の前に、優雅な手つきでカップが置かれた。琥珀色の液体は、湯気を上げながら椎名の顔をぼんやり映している。
「まあ、飲みなよ。先日はコーヒーを出したからね。俺の紅茶も、美味しい」
「どうも」
素っ気なく事務的な礼を返してから、克己はカップに口をつけた。ただ、目は油断なく椎名を観察している。おかしいな、と思った。椎名は黒いタートルセーターを着ているが、まるであわてて身に着けたように乱れている。髪もだ。いつもおしゃれ心を忘れない椎名らしくなかった。腹のあたりが、心なしか他の部分よりも黒く見える。水に濡れたようにも映った。
しばらく、二人が紅茶をすする音だけが空間を支配した。克己はその重圧に耐えきれずに、当たり障りのない質問を一生懸命考えている。
「椎名さん、紅茶好きなんですか」
「まあね。昔はコーヒーしか飲まなかったが。とびきり濃いやつさ。飲んだとたん吐き出しそうに苦くてね」
「そんなコーヒーを、わざわざ……」
「俺は兵士だったんだ。その……向こうの世界で。俺が配属されたのは極寒の地だった。寒くて寒くていつもうとうとしていたから、戦友たちと話し合って、苦いスペシャルコーヒーを作って飲んだんだ」
「じゃあ、なんで紅茶を?」
「俺は戦争が終わってから、心療外科医になった。そして、夕夏も今の仕事を選んだ。二人で活動しているうちに……な」
「夕夏さんが、好きだったから?」
克己は、ここでおいしそうに紅茶をすすっていた16歳の「夕夏」の姿を思い出していた。椎名は焦点の合わない目で克己を見た。
「……くだらないな。いや、その……まあ、そうかもしれないが」
必死に答えを作る椎名の姿が、哀れにもおかしかった。いつのまにか緊張は解けていた。克己はもう一口紅茶を飲んだ。はじめてほろ苦さを感じた。
「何で管理人になったんです?」
「夕夏から聞いていないのかな」
椎名は少し顔をしかめて背中をまるめた。暑くもないのに汗がにじんでいる。
「このマンションはね、克己の心の支えなのさ。心の支柱……。聞いたことないかい、そういう言葉」
「あるけど……」
「俺はここを『管理』するためにやってきた。だから管理人。若いくせに、な」
「もう教えてくれてもいいだろ。俺の隣人。一体誰なんだ?いや、そもそも誰か住んでいるのか?」
椎名は軽くため息をついて、カップを両手に収めて天井を見上げた。紅茶のぬくもりを感じ取ろうとするかのように、ちょっと目を伏せて。
そして笑った。
笑ったというよりも、口元を歪めたと言ったほうが適切かもしれない。見ようによっては破滅的な雰囲気を、若き青年医師は醸し出していた。
「俺よりも、君の方がよく知ってるんじゃないのか?」
克己は目を見張った。
椎名のそんな少年のような笑みを見たことがなかったのだ。人の宝物を隠して喜んでいる、いたずらっ子のような幼い意地悪。不快感は全く感じず、問い詰めたくもないが、言い当てるのがなんだか楽しい……。いたずらっぽいまなざし、ちょっとした心理戦。
克己は思いついたままに言葉にしていく。10歳くらいの少年がよくするように。
「夏彦みたいだ。いつも、そういうふうに笑ってた。他愛もないことを隠して、俺に言い当てさせようとするんだ……なあ、椎名さん。あんた、夏彦なんだろ?そうだよな?」
椎名は、微笑んだが何も言わずに、ポケットをまさぐっていた。やがて椎名が克己の目の前に、「あるもの」を置いた。傷がつくことがないように、丁寧に。
「返すよ」
「こんなもの、預けてないよ」
「俺が渡すべきものじゃない。お前が持っておくべきなんだ。俺はあれからずっとこれをなくさないように持っていた。考え続けた。でもやっぱり返すべきなんだ。これでいい。頼む、受け取ってくれ。……8年前の、忘れ物だ」
―受け取れない。
「受け取れない」
「そんな悲しいこと言うなよ。わかってるから、お前の気持ち」
―俺は、あいつにふさわしくない。
「俺は、あいつにふさわしくない」
「え、おい……克己?」
―言っただろ、3人でいれば幸せだって。お前たち2人が幸せなら、それでいいんだ。
「言っただろ、3人でいれば幸せだって。お前たち2人が幸せなら、それでいいんだ」
「バカ野郎!!」
黙ってうつむいていた椎名が、突然顔を真っ赤にして声を荒げた。克己ははっとした。
「お前は、いつもそうだ。人にばっかり世話を焼いて、自分のことは後回しだ。俺たちが本当にうれしいとでも思っていたのかよ!!よけいなおせっかいなんだ。お前だけが他人の幸せを願っていたとでも思っていたのか!?俺だって……。くそ、言葉にならない。ちきしょう、くそっ!」
椎名は激しくテーブルをこぶしで叩いた。カップが揺れ、底に少し残っていた紅茶が揺れてソーサーの上に飛び散った。
「夕夏は……お前のことが!!」
―時間だ。さあ、シャンパニオン公園へ……。
「あの公園へ行こう……いっしょに……夏彦に、夕夏……」
光……光が、俺を包み込んで……あったかい……誰の思い?……切なくて……。
苦しさも……悲しさも……喜びも……愛しくて……石、きらめいてるね……。
克己は反射的に後ろへ下がった。そんな彼に、椎名は笑顔を向けた。
「大丈夫。消しに来たんじゃない。少し話をしないか」
椎名はゆっくりと左を向き、管理人室のドアを開けた。克己は警戒しながらも部屋に入った。以前と変わらないその部屋は、塵も見当たらず、そこはかとなく漂うコーヒーの香りが懐かしく、克己は大きく息を吸い込んだ。
椎名は何事か呟きながら紅茶を入れていた。やがて克己の前に、優雅な手つきでカップが置かれた。琥珀色の液体は、湯気を上げながら椎名の顔をぼんやり映している。
「まあ、飲みなよ。先日はコーヒーを出したからね。俺の紅茶も、美味しい」
「どうも」
素っ気なく事務的な礼を返してから、克己はカップに口をつけた。ただ、目は油断なく椎名を観察している。おかしいな、と思った。椎名は黒いタートルセーターを着ているが、まるであわてて身に着けたように乱れている。髪もだ。いつもおしゃれ心を忘れない椎名らしくなかった。腹のあたりが、心なしか他の部分よりも黒く見える。水に濡れたようにも映った。
しばらく、二人が紅茶をすする音だけが空間を支配した。克己はその重圧に耐えきれずに、当たり障りのない質問を一生懸命考えている。
「椎名さん、紅茶好きなんですか」
「まあね。昔はコーヒーしか飲まなかったが。とびきり濃いやつさ。飲んだとたん吐き出しそうに苦くてね」
「そんなコーヒーを、わざわざ……」
「俺は兵士だったんだ。その……向こうの世界で。俺が配属されたのは極寒の地だった。寒くて寒くていつもうとうとしていたから、戦友たちと話し合って、苦いスペシャルコーヒーを作って飲んだんだ」
「じゃあ、なんで紅茶を?」
「俺は戦争が終わってから、心療外科医になった。そして、夕夏も今の仕事を選んだ。二人で活動しているうちに……な」
「夕夏さんが、好きだったから?」
克己は、ここでおいしそうに紅茶をすすっていた16歳の「夕夏」の姿を思い出していた。椎名は焦点の合わない目で克己を見た。
「……くだらないな。いや、その……まあ、そうかもしれないが」
必死に答えを作る椎名の姿が、哀れにもおかしかった。いつのまにか緊張は解けていた。克己はもう一口紅茶を飲んだ。はじめてほろ苦さを感じた。
「何で管理人になったんです?」
「夕夏から聞いていないのかな」
椎名は少し顔をしかめて背中をまるめた。暑くもないのに汗がにじんでいる。
「このマンションはね、克己の心の支えなのさ。心の支柱……。聞いたことないかい、そういう言葉」
「あるけど……」
「俺はここを『管理』するためにやってきた。だから管理人。若いくせに、な」
「もう教えてくれてもいいだろ。俺の隣人。一体誰なんだ?いや、そもそも誰か住んでいるのか?」
椎名は軽くため息をついて、カップを両手に収めて天井を見上げた。紅茶のぬくもりを感じ取ろうとするかのように、ちょっと目を伏せて。
そして笑った。
笑ったというよりも、口元を歪めたと言ったほうが適切かもしれない。見ようによっては破滅的な雰囲気を、若き青年医師は醸し出していた。
「俺よりも、君の方がよく知ってるんじゃないのか?」
克己は目を見張った。
椎名のそんな少年のような笑みを見たことがなかったのだ。人の宝物を隠して喜んでいる、いたずらっ子のような幼い意地悪。不快感は全く感じず、問い詰めたくもないが、言い当てるのがなんだか楽しい……。いたずらっぽいまなざし、ちょっとした心理戦。
克己は思いついたままに言葉にしていく。10歳くらいの少年がよくするように。
「夏彦みたいだ。いつも、そういうふうに笑ってた。他愛もないことを隠して、俺に言い当てさせようとするんだ……なあ、椎名さん。あんた、夏彦なんだろ?そうだよな?」
椎名は、微笑んだが何も言わずに、ポケットをまさぐっていた。やがて椎名が克己の目の前に、「あるもの」を置いた。傷がつくことがないように、丁寧に。
「返すよ」
「こんなもの、預けてないよ」
「俺が渡すべきものじゃない。お前が持っておくべきなんだ。俺はあれからずっとこれをなくさないように持っていた。考え続けた。でもやっぱり返すべきなんだ。これでいい。頼む、受け取ってくれ。……8年前の、忘れ物だ」
―受け取れない。
「受け取れない」
「そんな悲しいこと言うなよ。わかってるから、お前の気持ち」
―俺は、あいつにふさわしくない。
「俺は、あいつにふさわしくない」
「え、おい……克己?」
―言っただろ、3人でいれば幸せだって。お前たち2人が幸せなら、それでいいんだ。
「言っただろ、3人でいれば幸せだって。お前たち2人が幸せなら、それでいいんだ」
「バカ野郎!!」
黙ってうつむいていた椎名が、突然顔を真っ赤にして声を荒げた。克己ははっとした。
「お前は、いつもそうだ。人にばっかり世話を焼いて、自分のことは後回しだ。俺たちが本当にうれしいとでも思っていたのかよ!!よけいなおせっかいなんだ。お前だけが他人の幸せを願っていたとでも思っていたのか!?俺だって……。くそ、言葉にならない。ちきしょう、くそっ!」
椎名は激しくテーブルをこぶしで叩いた。カップが揺れ、底に少し残っていた紅茶が揺れてソーサーの上に飛び散った。
「夕夏は……お前のことが!!」
―時間だ。さあ、シャンパニオン公園へ……。
「あの公園へ行こう……いっしょに……夏彦に、夕夏……」
光……光が、俺を包み込んで……あったかい……誰の思い?……切なくて……。
苦しさも……悲しさも……喜びも……愛しくて……石、きらめいてるね……。