隣人M
驟雨と激流の別れ

椎名の「告解」

夕夏は、バリアを張るので精いっぱいだった。かすかな期待を抱いていた。ただ、椎名が邪魔をした時……その時の対処法が思いつかなかった。一応銃に弾をこめてはいたが、使いたくはない。手元が狂いそうだった。

頼む、椎名。来ないで……。


コンピューターが、作業の終了を告げる。さあ、全てがそろった。8年前の約束、ふさわしい舞台も。

夕夏は唇をぐっとかみしめる。かすかな血の味がした。




******

歩くと、砂がじゃりっと音を立てる。風はない。ただ、目の前には大きな緑の樹がどっしりと立っていた。椎名は息も絶え絶えに、木陰に座り込んでいる。克己はその隣に腰を下ろし、そっと彼の肩を抱いた。やせて角ばっている。とてつもない苦労がしのばれた。

「どうしたんだよ、その腹の傷……」

「自業自得さ」

椎名は大きく息を吐いて、克己にもたれかかった。

「やっぱり、克己なんだな。そういう気が、する。実感が湧いた。何もかも一緒なのに、気付かなかった……。思いたくなかった……。分裂症なんて……」

「もう、言わなくていいよ。服、ぐしょぐしょじゃないか。どうして言ってくれなかったんだよ」

「言ったって、無駄さ。こう深い傷じゃな。俺は一応医者だ。外科の勉強もした。この俺が、一番よくわかる。……少し、苦しいが……」

彼はひどくせきこんだ。そして、そっと目を閉じた。彼にはもう、すぐに起こるであろう事態が分かっていた。自分はそれでよかった。しかし、夕夏が苦しむことはないのか……。それが心配だった。しかし、夕夏の姿はまだ見えない。少しほっとして、大きく息を吸い込む。

「お前には、真実を伝えたい」

「うん。何?」

「夕夏の手術、失敗したこと、知ってるだろ?」

「ああ。確か、あんたが執刀して、不成功に終わったって」

「そうだ。……見かけはね」

「見かけ?」


*****

夕夏はそっと公園に足を踏み入れた。ふっと目をあげると、そびえたつ樹の下で、椎名と克己が何事かを話している。

「椎名……。遅かったか……」

夕夏は一瞬目を伏せ、すぐにそばにある滑り台の陰に隠れた。背の高い夕夏の全身を隠すほどの大きさもない、幼児用の遊具だ。夕夏は注意しながらかがみこみ、銃を取り出して弾が充填されているか確認した。

そのままぎゅっと目をつぶり、唇をきりきりとかんだ。すると、遠くから二人の話し声が耳に入ってきた。静かな公園だ。音は何にも邪魔されずに伝わってくる。

夕夏は耳をすませた。……何を言ってる、椎名?


「ああ、確か、あんたが執刀して、不成功に終わったって」

克己の柔らかい声の響きが、懐かしく感じられた。……私のことを言っているのか。椎名、またお前はあのことに触れているのか?克己には、あまり知られたくないのに。

お前が、克己に手を出すならば、見逃せない。私は、克己を守る……。しかし、椎名に生きていてほしい気持ちに嘘はない。できることなら、頼む、そこを離れて……。約束を、果たさせてくれ、椎名……。


「そうだ。……見かけはね」

「見かけ?」

ひどく顔色が悪い椎名の姿がうかがえる。かすかに語尾を上げて、その先を促す16歳のままの克己。

見かけ、見かけ……。どういうことなのか。あの手術はいったい……。手術の後に、カウンセリングを引き受けてくれた椎名。あの時椎名は……。

「手術は失敗してしまった。大丈夫だ。支障はないよ。君は、完璧な人間。いいかい、卑下してはいけないよ。
さあ、紅茶でも……」

落ち込んでソファに体を沈めた私の耳元で、熱くささやいた椎名。……いや、夏彦。鼻をくすぐる芳香と、紅茶のぬくもりが、いとしくて。疲れ果てていた。私の髪を優しく撫でる手。心の奥までのぞき込むような彼の瞳。何よりも……はりのある唇。心に傷みを感じながらも、何度も重ねあって。傷を埋めるように。

夕夏はまさに何かを語ろうとしている椎名の唇の動きを一心に見つめた。





「俺がわざとやったことだ。夕夏の心には、一切メスを入れていない。記憶にもだ」




椎名は重い口調でぽつりと言った。その後、重い重い足かせをはずしたかのように、安心感のこもったため息を一回ついた。



……ドン!!


死神を乗せた小さな鉛の弾が、椎名の胸をめがけて飛んできたが、樹にめり込んだ。椎名の体が重心を失って克己の腕の中に倒れ込んだのと、ほぼ同時だった。かすかに薄れていく白煙の向こうに、夕夏の大きな瞳がきらりと光ったのが見えた。そのまま彼女はかき消えた。
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