隣人M

いつもの教室

太陽のやわらかい光が全面に当たって、淡く輝く緑の黒板に、白いチョークで数式が次々に書き連ねられる。若い男性教師が背を向け、ほっそりした長い指を下にずらしていきながら、XやYなどの文字を書いていく。どこから仕入れてきた情報なのか、彼はバイオリンが趣味なのだと夕夏が言っていた。確かにあの指を見ればそうかもしれないな、と克己は頬杖をついて考えていた。関数のグラフ、それに伴う数式、全ての配置が芸術的で美しかった。気づくと、教師の繊細な細い声が彼を呼んでいた。


「結城、黒板にこの問題の答えを書いてみろ。皆は教科書の予習または問題集をやるように」


まずい。解けと言われた問題は、宿題で出されたが、昨日の練習はきつくて机で寝てしまい、解かなかったものだ。どうしようか。真っ白なノートが克己を嘲っているようで恨めしかった。


「どうした、結城」


少し苛立ったらしい教師の声が克己を急かす。その時、横からすっとノートが差し出された。ちらっと見ると夕夏が、やってないんでしょ、と言うようにいたずらっぽく笑っていた。克己はありがとう、と軽くうなずくと、素直にノートを受け取って黒板の前に出た。チョークを握って数式を書いていく。さすがに女子のノートだ。きれいに答えがまとめてあり、カラフルでハートなど記号が随所にちりばめられていてかわいらしい。克己は、自分の書きなぐった汚いノートを思い出して、背中がかゆくなった。


―そうか、この公式はここで使うのか。夕夏は頭がいいから、いい大学に行くんだろうな。克己はそう思いながら、ノートの片隅に小さく描かれたイラストに気づいた。可愛く描かれているが、バスケットボールを持つユニフォームを着た少年の絵だ。少女漫画風に、目がやたらに大きい。その足元に、Kと書かれている。


―誰のつもりなんだろう。克己は胸が高鳴るのを感じた。チョークを握る手が汗ばみ、指が白くなっている。バスケ部で夕夏と仲がいいのは、夏彦と俺くらいだ。NATSUHIKO KAGURA―夏彦のことか?そうかもしれない。夏彦も、口では夕夏をけなすが、まんざら嫌いというわけでもなさそうだし、ら夕夏も夏彦にはよく話しかけている。でも俺だってKATSUMI YUKIだ。Kのイニシャルはついている。なんといっても幼なじみだ。それにしても、何でこんなものを消さずに平気で俺に渡すんだ?やっぱり夏彦のことかもしれない。いやいや、単に好きな漫画のキャラクターなのかも……。


「おつかれさん」


ノートを写し終わって、黙って席につこうとする克己に、教師が声をかけた。だが克己はそれを無視して、そっと夕夏の机にノートを置いた。問題を解いていた夕夏が顔を上げて克己を見る。目が笑っていた。そして、彼の机を指差した。手紙らしい紙切れがさりげなく置いてある。


(誰から?)


克己は彼女に目で聞いた。夕夏は彼の後ろに目をやった。ふりかえると、夏彦が教師に見つからないように軽く手を振っていた。ボールペンの走り書きだ。かなり読みづらい字だが、人のことは言えない。


「放課後は俺も行く。なんだか気にかかる」


あの練習熱心な夏彦が―克己は驚いて夏彦を見た。しかし彼は、もう机の上に組んだ腕の中に顔を埋めていた。それを見つけたらしい教師が、眉を寄せてつかつかと彼の傍に歩み寄っていく。克己はとっさに輪ゴムをポケットから出して、狙いを定めてピュッと飛ばした。ゴムはかすかに鳴りながら、夏彦の袖をまくり上げた腕に当たった。


「いてぇ!」


夏彦が腕を押さえてがばっと跳ね起きた。虚をつかれた教師は、歩みを止めて目を大きく見開き、自分よりも体格がいい彼をじっと見つめていた。一瞬の間の後、クラスの皆がどっと笑い出した。教師も笑っている。


いつもの教室、いつもの出来事、いつもと同じ時の流れ。克己には、何故かいつもと同じ営みが悲しくてたまらなかった。はやし立てるクラスメートたちを尻目に、窓の外を見ると、青い空が広がっている。白い雲がふわふわと綿毛のように流れていく。その向こうに、何かがあるような気がした。手を少し伸ばしたなら、すぐそこに届きそうな……。
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