隣人M
意思のある風
「克己くん……?」
山口あすか。克己は、目覚めてすぐに目に映った若い女を見て、すぐに判別できた。
あすかはひどいけがだが、応急処置の手際がよかったのか、命に別状はなさそうだった。克己は、数回指をぽきぽきと鳴らして、動くことを確認した後、立ち上がった。
それからしばらくは、治療の時間だった。経験はないのに、なぜかやらなければならないことが全て分かる。あすかは恥ずかしそうに白い背中をむき出しにして、胸がはだけないように衣服でしっかりと隠しながら、うつむいていた。
「克己くんこそ、大丈夫なの?」
「ああ。……ほら、じっとしてろよ。あんまり動くと、薬がしみるぞ」
「ごめん。……ねえ、夕夏は?あの医者は?」
言いにくそうに、あすかが尋ねる。
「まあ、いろいろあってな。8年後にまた会うことになったよ」
「そう」
彼女はそれ以上詮索しなかった。しばらくは、医療機械のかすかに唸る音と、二人の静かな呼吸しか聞こえなかった。克己が思わずつぶやく。
「誰が、こんなひどいことを……」
「うちのボスよ。反心療派のね。話せば長くなるけど、つまり、私は裏切り者にされたわけね」
「そうか。二人とも、秘密を抱えているってわけか。いいさ、そのうち聞かせてくれよ。……よし、これでいい。まだ痛むか?」
「ううん、もう大丈夫。ありがとう。まるで本当の医者みたいだったわ」
あすかはさっと服を着ながら言った。克己は後ろを向いて、一人苦笑した。
「ところで、克己くん、腕に傷なんかあったかしら」
「傷?」
「そこ。すごく目立つのに、今まで気づかなかったわ」
言われて初めて気が付いた、腕の傷跡。椎名さん……。克己は黙って目を伏せると、それをなでた。
「それと、左の薬指の骨も、すごく変形してるわ。まるで指輪をはめているみたい」
見ると、克己の薬指の根元の骨が変形し、一つのリングのように見えた。触ると、もちろん固い。その中心部が、はめられた石のように少し出っ張っていた。夕夏さんのリング……克己は、ぐっとこぶしを作った。
「とにかく、お互いいろいろあったのね。夕夏、克己くんのことをひどく心配していたのよ。でも、こんな風に元気になってくれて、よかったわ」
あすかは飛び散った物の破片を踏みながら、椎名のデスクに近づいていく克己の後ろ姿に声をかけた。
どっしりとしたデスクは、いろいろな物……びんのかけら、焼け焦げた書類などが散乱していた。克己は、そんなごみの中から、一枚のメモを引き抜いた。それは、不思議と焼けてもいないし、破れてもいない。きれいな、ほぼ完全な状態で残っていた。
何かの意思が、働いたかのように。
「意思のある風になりたい……願わくば、我に永遠の安息のあらんことを」
万年筆の殴り書き。ところどころインクがにじんでいる。誰の筆跡かも、いつごろ書かれたのかも分からない。それでも。この紙片からは、誰かの苦悩と悲痛な叫びが聞こえてくる。
克己は、窓にかかった重いカーテンを開けた。窓もひどいことになっている。それでも、太陽の光は変わらず差し込み、克己の顔にやわらかい陰影を作った。
彼は、そっと腕の傷を太陽にさらし、それから左の薬指の骨にキスをした。骨に歯が当たって、かちりと音がした。
ダイヤモンドがきらめくような、美しくも哀しい陽光の中に、克己の姿が浮かび上がった。窓から入ってきたやさしい風が、彼を包んだ。親友と初恋の思い出のような、懐かしくも切ない日なたのぬくもりだった。
(了)2015.5.6
Thanks for reading this novel!
山口あすか。克己は、目覚めてすぐに目に映った若い女を見て、すぐに判別できた。
あすかはひどいけがだが、応急処置の手際がよかったのか、命に別状はなさそうだった。克己は、数回指をぽきぽきと鳴らして、動くことを確認した後、立ち上がった。
それからしばらくは、治療の時間だった。経験はないのに、なぜかやらなければならないことが全て分かる。あすかは恥ずかしそうに白い背中をむき出しにして、胸がはだけないように衣服でしっかりと隠しながら、うつむいていた。
「克己くんこそ、大丈夫なの?」
「ああ。……ほら、じっとしてろよ。あんまり動くと、薬がしみるぞ」
「ごめん。……ねえ、夕夏は?あの医者は?」
言いにくそうに、あすかが尋ねる。
「まあ、いろいろあってな。8年後にまた会うことになったよ」
「そう」
彼女はそれ以上詮索しなかった。しばらくは、医療機械のかすかに唸る音と、二人の静かな呼吸しか聞こえなかった。克己が思わずつぶやく。
「誰が、こんなひどいことを……」
「うちのボスよ。反心療派のね。話せば長くなるけど、つまり、私は裏切り者にされたわけね」
「そうか。二人とも、秘密を抱えているってわけか。いいさ、そのうち聞かせてくれよ。……よし、これでいい。まだ痛むか?」
「ううん、もう大丈夫。ありがとう。まるで本当の医者みたいだったわ」
あすかはさっと服を着ながら言った。克己は後ろを向いて、一人苦笑した。
「ところで、克己くん、腕に傷なんかあったかしら」
「傷?」
「そこ。すごく目立つのに、今まで気づかなかったわ」
言われて初めて気が付いた、腕の傷跡。椎名さん……。克己は黙って目を伏せると、それをなでた。
「それと、左の薬指の骨も、すごく変形してるわ。まるで指輪をはめているみたい」
見ると、克己の薬指の根元の骨が変形し、一つのリングのように見えた。触ると、もちろん固い。その中心部が、はめられた石のように少し出っ張っていた。夕夏さんのリング……克己は、ぐっとこぶしを作った。
「とにかく、お互いいろいろあったのね。夕夏、克己くんのことをひどく心配していたのよ。でも、こんな風に元気になってくれて、よかったわ」
あすかは飛び散った物の破片を踏みながら、椎名のデスクに近づいていく克己の後ろ姿に声をかけた。
どっしりとしたデスクは、いろいろな物……びんのかけら、焼け焦げた書類などが散乱していた。克己は、そんなごみの中から、一枚のメモを引き抜いた。それは、不思議と焼けてもいないし、破れてもいない。きれいな、ほぼ完全な状態で残っていた。
何かの意思が、働いたかのように。
「意思のある風になりたい……願わくば、我に永遠の安息のあらんことを」
万年筆の殴り書き。ところどころインクがにじんでいる。誰の筆跡かも、いつごろ書かれたのかも分からない。それでも。この紙片からは、誰かの苦悩と悲痛な叫びが聞こえてくる。
克己は、窓にかかった重いカーテンを開けた。窓もひどいことになっている。それでも、太陽の光は変わらず差し込み、克己の顔にやわらかい陰影を作った。
彼は、そっと腕の傷を太陽にさらし、それから左の薬指の骨にキスをした。骨に歯が当たって、かちりと音がした。
ダイヤモンドがきらめくような、美しくも哀しい陽光の中に、克己の姿が浮かび上がった。窓から入ってきたやさしい風が、彼を包んだ。親友と初恋の思い出のような、懐かしくも切ない日なたのぬくもりだった。
(了)2015.5.6
Thanks for reading this novel!