隣人M
管理人室にて
「君は、紅茶でいいかい?」
克己と夏彦が、出されたコーヒーに口をつけると、椎名が夕夏に尋ねた。
「はい。もしあったらミルクも……」
香り高いコーヒーのほろ苦い味と夕夏の妙に甘えた声が、克己の脳に刻み込まれる。夏彦は不機嫌な様子だ。克己は、失望というよりむしろ劣等感に近いものを抱いていた。
「……美味しい」
夕夏が笑って椎名を見上げていた。彼は微笑みを返すと、ゆっくり克己の前のソファに腰をおろした。
「オリジナルブレンドなんだ。僕も紅茶が好きなんだよ。もっとも、ストレートで飲む方が多いけれどね。お菓子があれば良かったんだが、あいにく先客があってケーキを切らしてる」
「……でも、なんだかホッとしちゃった」
「何が?」
「椎名さんって、皆があんまりかっこいいって言うから、どんな人なんだろうって思っていたんです。でも、気さくな方で良かった」
夕夏の視線はさっきから椎名に吸い付けられている。夏彦が大きく咳払いをした。
「克己の話はどうなったんですか?」
「ああ、そうか。いいよ、結城くん。話してごらん」
椎名はテーブルの上のカップに手を伸ばした。その時、薄手のセーターの袖の下からたくましい腕がのぞいた。かなり目立つ大きな傷痕が、生々しく刻まれていた。克己は気になって尋ねてみた。
「椎名さんは怪我をされたんですか?ずいぶん大きな傷痕ですね」「あ、ああ……古傷だよ」
椎名はそそくさと傷痕を隠した。一瞬、鋭く彼の目が光った。
「そんなことより結城くん、君の話を……」
「ええ。実は、俺の家の隣に住んでいる人のことを教えてほしいんです。どんな人なのか、何をしているのか、いや、男か女か、だけでも」
「なぜ?」
椎名は膝の下で手を組み、身を乗り出して克己をじっと見つめた。その視線からは、克己の真意をなんとか見出だそうとする焦りが感じられた。彼のさらさらとした髪が、呼吸をする度にかすかに揺れる。その度にいい香りがただよい、やがて消えていった。夏彦は黙ってコーヒーをすすっている。しかし、聞き耳だけは立てているようだ。ちらちらと克己を盗み見る仕草がそれを物語っている。夕夏は長い脚を組んで、膝の上で空になったカップを弄んでいる。
「……笑われるかもしれませんけど」
「言ってごらん」
「俺、今日は特に気になって仕方ないんです」
「隣に住んでいる人のことが?」
「はい。朝、家を出るときも、夜、家に帰ってくるときも、あのドアノブを回してみたくなって……ドアの向こうから誰が顔を覗かせるのか、わくわくしながら。どうしても知りたいんです。俺、変なんだ」
皆が黙りこんだ。時計の秒針が動く音だけが、部屋に響き渡る。やがて椎名が顔を上げた。夏彦は目を伏せ、夕夏は天井をぼんやり見つめ、克己はさっきから隠された傷痕がある椎名の腕を見つめていた。
「……そういう感情が、どこから湧き起こるのかわからないのかい?」
「はい。……でも」
克己は手を胸に当ててちょっと間を置いて呟いた。
「なんだか、何かをしなければならないような気がするんです。何かを知ってる、何かが呼んでる、そんな気がして……」
椎名が微笑んだが、目は笑っていなかった。
「……そうだね。あれは……M、とでも呼ぶか。隣人M、さ」
「M?」
「M、はmotherのMさ」
きれいな発音だった。椎名はゆっくり脚を組み、考えるように頭に手をやった。
「管理人としては、あまりいろいろ教えることができないんだ。個人情報だからね」
彼は、もう聞かないでくれ、と言うように話を打ち切った。
「わかりました。お邪魔しました」
場は白けていた。克己は、すっかり冷めきったコーヒーを飲み干した。苦さがいつまでも舌に残ってざらついていた。
克己と夏彦が、出されたコーヒーに口をつけると、椎名が夕夏に尋ねた。
「はい。もしあったらミルクも……」
香り高いコーヒーのほろ苦い味と夕夏の妙に甘えた声が、克己の脳に刻み込まれる。夏彦は不機嫌な様子だ。克己は、失望というよりむしろ劣等感に近いものを抱いていた。
「……美味しい」
夕夏が笑って椎名を見上げていた。彼は微笑みを返すと、ゆっくり克己の前のソファに腰をおろした。
「オリジナルブレンドなんだ。僕も紅茶が好きなんだよ。もっとも、ストレートで飲む方が多いけれどね。お菓子があれば良かったんだが、あいにく先客があってケーキを切らしてる」
「……でも、なんだかホッとしちゃった」
「何が?」
「椎名さんって、皆があんまりかっこいいって言うから、どんな人なんだろうって思っていたんです。でも、気さくな方で良かった」
夕夏の視線はさっきから椎名に吸い付けられている。夏彦が大きく咳払いをした。
「克己の話はどうなったんですか?」
「ああ、そうか。いいよ、結城くん。話してごらん」
椎名はテーブルの上のカップに手を伸ばした。その時、薄手のセーターの袖の下からたくましい腕がのぞいた。かなり目立つ大きな傷痕が、生々しく刻まれていた。克己は気になって尋ねてみた。
「椎名さんは怪我をされたんですか?ずいぶん大きな傷痕ですね」「あ、ああ……古傷だよ」
椎名はそそくさと傷痕を隠した。一瞬、鋭く彼の目が光った。
「そんなことより結城くん、君の話を……」
「ええ。実は、俺の家の隣に住んでいる人のことを教えてほしいんです。どんな人なのか、何をしているのか、いや、男か女か、だけでも」
「なぜ?」
椎名は膝の下で手を組み、身を乗り出して克己をじっと見つめた。その視線からは、克己の真意をなんとか見出だそうとする焦りが感じられた。彼のさらさらとした髪が、呼吸をする度にかすかに揺れる。その度にいい香りがただよい、やがて消えていった。夏彦は黙ってコーヒーをすすっている。しかし、聞き耳だけは立てているようだ。ちらちらと克己を盗み見る仕草がそれを物語っている。夕夏は長い脚を組んで、膝の上で空になったカップを弄んでいる。
「……笑われるかもしれませんけど」
「言ってごらん」
「俺、今日は特に気になって仕方ないんです」
「隣に住んでいる人のことが?」
「はい。朝、家を出るときも、夜、家に帰ってくるときも、あのドアノブを回してみたくなって……ドアの向こうから誰が顔を覗かせるのか、わくわくしながら。どうしても知りたいんです。俺、変なんだ」
皆が黙りこんだ。時計の秒針が動く音だけが、部屋に響き渡る。やがて椎名が顔を上げた。夏彦は目を伏せ、夕夏は天井をぼんやり見つめ、克己はさっきから隠された傷痕がある椎名の腕を見つめていた。
「……そういう感情が、どこから湧き起こるのかわからないのかい?」
「はい。……でも」
克己は手を胸に当ててちょっと間を置いて呟いた。
「なんだか、何かをしなければならないような気がするんです。何かを知ってる、何かが呼んでる、そんな気がして……」
椎名が微笑んだが、目は笑っていなかった。
「……そうだね。あれは……M、とでも呼ぶか。隣人M、さ」
「M?」
「M、はmotherのMさ」
きれいな発音だった。椎名はゆっくり脚を組み、考えるように頭に手をやった。
「管理人としては、あまりいろいろ教えることができないんだ。個人情報だからね」
彼は、もう聞かないでくれ、と言うように話を打ち切った。
「わかりました。お邪魔しました」
場は白けていた。克己は、すっかり冷めきったコーヒーを飲み干した。苦さがいつまでも舌に残ってざらついていた。