隣人M
事件―存在の揺らぎ

事件、その始まり

「克己、電話よ」


廊下から、母の声がした。克己はのろのろとベッドから起き上がって、乱れた髪を手櫛で整えた。

―誰からだろう。きっと夏彦だ。今日のことで文句があるのだろう。あの後、帰り道ではあまり口を聞かなかったし……。克己はみしみしと歩きながら考えた。夕夏を送っていくって言ってたっけ。もう遅くなってたしなあ。あいつは、夕夏のことが好きなんだろうか。どうでもいいや、そんなこと。俺には関係ない。……本当に?夕夏が、あいつのことを好きだとしたら?


「ほら克己、早く出なさい」


母が妙に意味ありげな笑みを浮かべて、受話器を手渡した。


「誰から?夏彦?」
「違うわ。ええと……確か山口さんって」
「山口?」
「女の子よ。あんたも隅に置けないわね」


父が、居間で新聞を読みながら聞き耳を立てているのが分かる。


「何だか急ぎの用みたいよ」


山口あすかか?克己はその名前しか思いつかなかった。確かに同じバスケ部ということで、何度か話したことはあるが、夜に電話してくるなんて何があったのだろう。克己は、両親の好奇心に満ちた視線をひしひしと感じながら、しぶしぶ受話器を耳に当てた。


「もしもし、結城だけど……」
「結城くん、結城くんね!?わたし、山口よ。山口あすか―」


克己が「どうしたの?」と聞く前に、あすかの涙声が耳に飛び込んできた。


「何かあったのか?」
「夕夏が……夕夏が、誘拐されたの!」


克己は一瞬、足元がふらついた。なんとか持ちこたえ、受話器を持つ手に力が入る。


「何だって!?」
「さっき……さっき、夕夏のお母さんから電話があって……。神楽くんと帰っているときに、誰かに襲われたらしいのよ。神楽くんが必死で夕夏を守ろうとしたけど、犯人がいきなり神楽くんに切りつけてきて、ひるんだ隙に、夕夏が……」
「夏彦は!?」
「大学病院で手当てを受けているらしいの。腕に傷を負ったらしいんだけど、結構深くて、痕がくっきり残りそうだって……」
「分かった。山口、君はどうする?」
「分からない。分からないわ、あたし……ああ、夕夏……」


彼女が電話口で泣き崩れたのが分かった。


「いいか、俺は今から夏彦の病院に行ってくる。夕夏のことは警察に任せよう。また連絡するよ」
「うん……ごめん、あたし何もできなくて……」
「もう何も言わなくていいから、ゆっくり休めよ、な?大丈夫だって、絶対」
「ありがとう……」


克己は受話器を置くと、後ろを振り向いた。


「父さん、母さん?」


誰もいなかった。克己のそばに、両親の姿はなかった。言い様のない不安が克己を襲った。いなくなるような気配は全くなかったのに。何もかもそのままだ。父の読みかけの新聞が椅子にあり、吸いかけの煙草も煙をかすかに上げていた。心なしか、物の配置が変わっている気がする。そうだ、テレビはこんなところになかった。テーブルも、観葉植物も、位置がずれている。


克己は廊下を抜け、家を飛び出した。こんなことってあるんだろうか?何なんだ、この胸騒ぎ……おかしい、何かがおかしい!


「これは……」


隣室のドアに、べったりと赤い手形がついていた。しなやかな、長い指をした手だ。克己は思わず鼻を近づけてみた。ぷんと独特の錆のような臭いがした。


―血だ。何だ、この血の手形は。心臓が今にも破裂しそうに高鳴る。夏でもないのに、汗が目に入って滲みる。目のあたりの筋肉がピクピクと痙攣し、頬が火照り、口の中がからからに乾いているのが分かる。


克己はドアノブに手をかけた。いくつもの不吉な思いと、夏彦や夕夏の明るい笑顔が脳裏に浮かぶ。ここを開ければ、きっと何もかもはっきりするんだ。どうした、結城克己?さあ、右手に力を込めてくるりと回せばいいんだ。鍵がかかっているなら、椎名さんに頼んで―。



「動くな」
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