隣人M
幻影とバスケットボール
「何を言ってるんですか?俺が克己だよ。結城克己さ。……そうか、椎名さん、何か勘違いしてるんだ。ハハ……」
唇がひきつって、うまく笑えなかった。椎名の表情に、決して冗談ではない「本気」を感じたからだ。冷たい風が、克己の火照った頬をさっと撫でて去っていく。
「そう、勘違いしているんだ。君が、ね」
カチリと銃の安全装置を外す音がした。椎名は、少し顎を上げて克己を小馬鹿にしたような笑みを浮かべている。
「椎名!手出しは無用だ。そいつは私が殺る!早く神楽夏彦の所へ!大学病院だ!」
どこからかさっきの女の声が、鋭く空気を切り裂いた。椎名は舌打ちすると、克己の服をぐいと掴んで走り出した。
「椎名さん!うっ、痛い!」
「つべこべ言わずに走れ!」
「夏彦の所へ行くのか!?」
「ああ。……ほら、遅いぞ!」
「本気かよ!ここから病院まで20キロはあるんだぞ!」
「ご忠告ありがとう。だが、もう着いたんだぜ」
そんなバカな!いつもは車で数十分はかかる道のりなのに、二分とかからないうちに、あれだ、大学病院が見えた……おかしい。変だ!俺は夢を見ているのか?
克己はパチパチと音を立てて瞬きしてみたが、夢ではなかった。病院は、電気はついているものの、全く人気がない。小さい頃に聞かされた幽霊病院みたいだ、と克己は身震いした。
椎名は走るのをやめると、急に克己を軽々と放り投げた。吹っ飛ばされた細身の体は停まった車にぶつかり、背中が鈍い音を立てた。
「痛い!何をするんだよ、椎名さん!」
「うるさいぞ。……ほら、お出ましだ。全く想像の産物とは恐ろしいものだな。……まるで、昔の俺みたいだよ」
白い人影がゆっくりと近づいてくる。暗闇にすっぽり包まれて顔はよく見えないが、その人影の周りだけがかすかに光って見える。
「……克己」
「夏彦?」
確かに夏彦だった。しかし、なぜか姿がぼやけ、ゆらいで見える。克己は急いで目をこすった。だがいくら見つめても、その不思議な感覚は消えず、反対にだんだん曖昧さが増していく。なのに、なぜか椎名の姿ははっきり見える。椎名は、見下したようにふんと鼻を鳴らした。
「見え方がおかしいか?まあ、当然だがな」
「あんた……何をした?何者だ?何が目的だ?」
夏彦は疲れきったような顔で、両手をだらりと横にたらし、弱々しく言った。克己は目を疑った。あの活発でたくましい、エネルギーに満ち溢れていた夏彦の顔が、目は落ちくぼんで縁が黒ずんでいる。ピンク色で瑞々しく張っていた頬も、今は痩けて、青黒く艶を失っている。
椎名はタバコに火をつけた。
「まあ、そんなに一度に質問するな。完璧な質問じゃないな。答える価値もない」
「あんたが誰なのか分からない。けど、あんたはとてつもなく危険だ。そんな危ない臭いがするぜ」
「ふうん……鼻がきくな。このイヌが」
「ああ!?」
夏彦は椎名につかみかかったが、簡単に吹っ飛ばされた。アスファルトで固められた冷たい地面にぶつかった彼の体は、そのままぴくりとも動かない。椎名はゆっくりと煙をくゆらせて夏彦を見下ろし、靴の先で蹴った。克己は叫んだ。
「やめろ!夏彦が何をしたっていうんだ!」
「何もしてないさ。何もしてないからこそ、こいつに腹が立つんだよ!」
椎名はぎらぎら光る目でちらっと克己を見やった。今までのクールな仮面が引きちぎられ、ちらりと垣間見た彼の「素顔」は、今まで克己が見てきたどんな人間の顔よりも怒りに満ち、一抹の深い悲しみを含んでいた。
椎名はまだ長いタバコを口から抜き取り、ピッと弾くと、地面に落ちた吸殻をグリグリと踏みにじった。独特の臭いが辺りに立ち込め、克己は軽く咳をした。
……バスケットボール……そこに転がって……どっち……強い……
「……よお、椎名さん。あんた、バスケやってたって言ってたな。強いか?」
夏彦はゆっくり起き上がった。いつの間にかバスケットボールを脇に抱えている。椎名は目を大きく見開いた。
「お前……どこからそんなものを……?」
「さあな。ここにあったぜ。ほら、リングもあそこだ」
彼が指差す先には、確かにバスケットボールのリングがあった。公園によくあるような簡易式のものだ。何故、こんなところに?さっきは絶対になかった……克己はあれこれ考えを巡らせる。椎名は目を伏せた。
「克己……お前の気持ちなのか?俺とあいつの対決を望んでいるのか?」
「何をごちゃごちゃ言ってるんだ。いくぞ!」
唇がひきつって、うまく笑えなかった。椎名の表情に、決して冗談ではない「本気」を感じたからだ。冷たい風が、克己の火照った頬をさっと撫でて去っていく。
「そう、勘違いしているんだ。君が、ね」
カチリと銃の安全装置を外す音がした。椎名は、少し顎を上げて克己を小馬鹿にしたような笑みを浮かべている。
「椎名!手出しは無用だ。そいつは私が殺る!早く神楽夏彦の所へ!大学病院だ!」
どこからかさっきの女の声が、鋭く空気を切り裂いた。椎名は舌打ちすると、克己の服をぐいと掴んで走り出した。
「椎名さん!うっ、痛い!」
「つべこべ言わずに走れ!」
「夏彦の所へ行くのか!?」
「ああ。……ほら、遅いぞ!」
「本気かよ!ここから病院まで20キロはあるんだぞ!」
「ご忠告ありがとう。だが、もう着いたんだぜ」
そんなバカな!いつもは車で数十分はかかる道のりなのに、二分とかからないうちに、あれだ、大学病院が見えた……おかしい。変だ!俺は夢を見ているのか?
克己はパチパチと音を立てて瞬きしてみたが、夢ではなかった。病院は、電気はついているものの、全く人気がない。小さい頃に聞かされた幽霊病院みたいだ、と克己は身震いした。
椎名は走るのをやめると、急に克己を軽々と放り投げた。吹っ飛ばされた細身の体は停まった車にぶつかり、背中が鈍い音を立てた。
「痛い!何をするんだよ、椎名さん!」
「うるさいぞ。……ほら、お出ましだ。全く想像の産物とは恐ろしいものだな。……まるで、昔の俺みたいだよ」
白い人影がゆっくりと近づいてくる。暗闇にすっぽり包まれて顔はよく見えないが、その人影の周りだけがかすかに光って見える。
「……克己」
「夏彦?」
確かに夏彦だった。しかし、なぜか姿がぼやけ、ゆらいで見える。克己は急いで目をこすった。だがいくら見つめても、その不思議な感覚は消えず、反対にだんだん曖昧さが増していく。なのに、なぜか椎名の姿ははっきり見える。椎名は、見下したようにふんと鼻を鳴らした。
「見え方がおかしいか?まあ、当然だがな」
「あんた……何をした?何者だ?何が目的だ?」
夏彦は疲れきったような顔で、両手をだらりと横にたらし、弱々しく言った。克己は目を疑った。あの活発でたくましい、エネルギーに満ち溢れていた夏彦の顔が、目は落ちくぼんで縁が黒ずんでいる。ピンク色で瑞々しく張っていた頬も、今は痩けて、青黒く艶を失っている。
椎名はタバコに火をつけた。
「まあ、そんなに一度に質問するな。完璧な質問じゃないな。答える価値もない」
「あんたが誰なのか分からない。けど、あんたはとてつもなく危険だ。そんな危ない臭いがするぜ」
「ふうん……鼻がきくな。このイヌが」
「ああ!?」
夏彦は椎名につかみかかったが、簡単に吹っ飛ばされた。アスファルトで固められた冷たい地面にぶつかった彼の体は、そのままぴくりとも動かない。椎名はゆっくりと煙をくゆらせて夏彦を見下ろし、靴の先で蹴った。克己は叫んだ。
「やめろ!夏彦が何をしたっていうんだ!」
「何もしてないさ。何もしてないからこそ、こいつに腹が立つんだよ!」
椎名はぎらぎら光る目でちらっと克己を見やった。今までのクールな仮面が引きちぎられ、ちらりと垣間見た彼の「素顔」は、今まで克己が見てきたどんな人間の顔よりも怒りに満ち、一抹の深い悲しみを含んでいた。
椎名はまだ長いタバコを口から抜き取り、ピッと弾くと、地面に落ちた吸殻をグリグリと踏みにじった。独特の臭いが辺りに立ち込め、克己は軽く咳をした。
……バスケットボール……そこに転がって……どっち……強い……
「……よお、椎名さん。あんた、バスケやってたって言ってたな。強いか?」
夏彦はゆっくり起き上がった。いつの間にかバスケットボールを脇に抱えている。椎名は目を大きく見開いた。
「お前……どこからそんなものを……?」
「さあな。ここにあったぜ。ほら、リングもあそこだ」
彼が指差す先には、確かにバスケットボールのリングがあった。公園によくあるような簡易式のものだ。何故、こんなところに?さっきは絶対になかった……克己はあれこれ考えを巡らせる。椎名は目を伏せた。
「克己……お前の気持ちなのか?俺とあいつの対決を望んでいるのか?」
「何をごちゃごちゃ言ってるんだ。いくぞ!」