理想恋愛屋
 思っていたことと同じ言葉を耳にして、ドキリとしてしまう。

「たっ、匠さんっ!」

 振り返ると、出入り口を見つめる兄の横顔。

いつも冷静な兄のそんな表情は、ますます不安を煽るようだ。


 いてもたってもいられず、オレは湯船から立ち上がる。

「やっぱり、先にいってますね」

 熱めのお湯だというのに、感じさせないほど涼しい表情で兄に見送られて脱衣所へと戻る。

 カラリと戸を引くと、すでに脱衣所には姿はない。

 急いで体を拭いて備え付けの浴衣を着る。

白地に藍色の紅葉模様が入っており、同じ藍色の帯をきゅっと締めれば、更に温泉気分を高めてくれる。

 本当はここで一杯ビール、とでもいきたいところだが、今はそれどころではない。

ぐっとこらえてミネラルウォーターを自販機で買うと、荷物まとめて男湯とかかれたのれんをくぐる。

すると、ちょうど角を曲がるオトメくんを見つけた。


 なるべく離れないように、しかし気づかれないように後を尾行する。

壁づたいに様子を見ながら先に進む姿は、さながら忍者。


 …と思っていたのだけれど。


「何してるの?」


 不意に背後からの声に、ビクッと肩が跳ねてしまった。

ドクドクと騒ぎ立てる心臓に、おさえるように手をあてて慌てて振り返る。

「…あ、秋さん!」

 そこにはしっとりと長い髪をたらして、肩にタオルをかけてキョトンと見つめている秋さん。

少し色っぽく見えた、だなんて言ってしまったら最後なのはわかっていた。

「え、いや、あの……」

 目が泳ぐオレをみて、次第に唇がイヤらしく引きつっていく。

我ながらこういう場面は大のニガテだ。


「ははーん、葵ちゃんってば……」

 目を細め袂で口元を隠していて、仕草は女性そのもの。

しかし、平べったい胸元をみると、一気に現実に戻るオレなのだった。


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