理想恋愛屋
「いい眼や、兄ちゃん」

 こっちは背中に汗ビッショリだけどな。


「よっしゃ、いっちょ始めよか」

 軽く目配せをしたかと思うと、飄々とオレたちの間を通り過ぎていく。

オレは黙ってその後ろについていったのだけど。


「えっ、ちょっと?……なんなのよ!?」

 戸惑う彼女の叫び声だけが背後で響いた。



 通されたのはホテルの厨房だった。

慌しくシェフたちが走り回る中、貴義氏は「すまんなァ」と悪びれる様子もなく縫うように歩いていく。

おれも申し訳ないと思いつつ後を追う。


 彼女は、ずいぶん体格のよい貴義氏の秘書に別室へと連れられていってしまった。

「なぁにすんのよ!」

 ブン、と唸らせたいつものアレが容赦なく飛び出た。

だが、彼はひょいと避けると彼女を、まるでバッグを小脇に抱えるように連れて行ったのだ。


「なんなのよぉおおおっ!」

 次に会ったとき、八つ当たりされるのを覚悟しておこう。


「それにしても、兄ちゃんよう勝負する気ィなったな?」

 突然の貴義氏からの質問に、はっと現実に戻される。

その背中はオレより小さいはずなのに、やけにドでかい壁のよう。


「……これくらいしないと、格好つかないでしょ?」


 オレのちっぽけプライドを見抜いたのだろうか。
 

「“フリ”なのに?」

「………っ!」


.
< 285 / 307 >

この作品をシェア

pagetop