理想恋愛屋
「……っ!」

 萌のはっと息を呑む音が聞こえ、ゆっくり隣へと視線を落とすと真っ赤になるまで唇を噛んでいた。

『これより新アトラクションの記念式典を始めたいと思います』

 そんな複雑の空気なんか読まずに、司会のかしこまった挨拶が、スピーカー越しにひび割れた音と共に聞こえてくる。

「葵、ゴメンね……」

 そういい残すように萌は背中を消してしまった。


 本当にこれでいいんだろうか?

そんな疑問がオレを動かし、いても立ってもいられず、消えた方向に走り出した。


 式典が始まって、アナウンスを聞きつけたのか、さっきよりも人が集まってきていた。

掻き分けるように人ごみを抜けると、カフェテラスのパラソルの下でテーブルに突っ伏す人影。

その後姿に見覚えがあって、オレはゆっくり近づいた。

「萌」

 オレの声にばっと起き上がったけど、顔は向けてくれなかった。

 隣に座ると、長いまつげが真っ赤になってしまった瞳を縁取って、少し濡れていた。


 休日の遊園地ということでただでさえにぎやかなのに、聞こえてくる式典の騒々しさといったら、それを煽るようだ。

 何もいえず、オレはただ隣にいた。


 ──つけこむ?

まさか。オレにそんな度胸なんてない。


 そんな中、スピーカーから聞こえてくるのはヘタな司会の進行で、ただでさえ元気のない萌に拍車をかける。

『それでは当園の専務取締役、植松よりご挨拶です』

 そのとき、人だかりが一層ざわつきはじめる。


『このたびは、当園に足を運んでいただきありがとうございます。……特に、一ノ瀬匠様?』


 クスリと撫でるような笑い方に、はっとする。

きっとこの声は、さっきの兄に抱きついた人だ。

それを萌も感じ取ったのだろうか、すっかり肩を落としきってしまっていた。


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