理想恋愛屋
 腕の中にはなんとか怪我もなく、オレに包まれるように縮こまっていた彼女。

 オレはひりひりする腕を我慢してゆっくり上半身を起こした。

 彼女は慌てたようにオレが走りこんできたほうを指差す。

「あたしより……、ほら!」

 そこにいるのは萌。

「萌さん……」

 意を決したような兄の表情に、オレまで喉がなった。

 兄はクルリと向き直り、舞台下に倒れこんでいるオレたちからは姿が見えなくなってしまった。

すると、キィンと再びスピーカーが悲鳴を上げる。


『植松さん、例のお話は……お断りします』

「ちょっと、匠様!話が……っ!」


 兄の言葉に舞台からダン!と激しい音が響いてくる。

 ……な、何が起きてるんだ?


 痛みで動けないでいるのをいいことに、オレは耳を澄ます。

腕の中にいる彼女もまた、同じようにじっと舞台を見つめていた。


『婚約なんて周りがいっていただけです。
……他に、心からそばにいたいと思う人が、もういるんです』

 一段と優しくなった語尾に、なぜだかオレまでくすぐったい。

 タンタンと階段を下りる足音が向かっているのはオレが走ってきた方だ。


『萌さん……。
結婚してくれませんか?』

 会場は一気に静まり返る。

萌の答えをその場にいる人たちは望んでいたに違いない。


「……はい…」

 さっきまでしおれたように落ち込んで泣いていた萌。

今は、本当に幸せそうだった。


 辺りは拍手喝采で包まれる。

彼女はそんな兄の姿をほっと安堵したかのようなため息をついていた。


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