トロンプ・ルイユは実像の夢を見るか
無題
頬についた切り傷から、わずかな痛みとなま暖かなものがこぼれるのを感じる。少年の、男を射る双眸はゆらりと陽炎のように彷徨い、しっかりとした意識はあるのかないのか、見る限りではわからない。
少年のか細い手に握られたナイフがにぶく光る。付着した微かな紅は、きっと男のものだろう。
距離は変わらない。交わす言葉もない。遠くもなければ、近くもない。しばらく見つめあったままだ。
「……おれは、死ぬのか?」
半ば無意識に言葉がもれた。我ながらばからしい問いだと、男は自嘲する。ただ、自分の命は少年の気分ひとつでどうにでもなるのだろうという認識はあった。
それでも恐れは感じなかった。安堵すらおぼえていた。唯一、頬の切り傷から流れた血が、理性をもたせてくれている頼りなげな糸だ。
少年は男の眸に諦めが見えるのを感じ取ったのか否か、静かに瞼を伏せたのち、ゆっくりと唇を開いた。
「……死にたいのか」
「いや……わからん。ただ……死んでも悔いはない。おまえはおれを殺したいか」
「……わからない」
「わからないのに、こんな事をするのか」
「わからないからこんな事をするんだ」
「……なら、殺してくれと言ったら殺してくれるのか」
「ああ。いますぐ楽にしてやる」
少年は毅然として言い放った。
伏せられていた眸は男にまっすぐ向けられ、一点の曇りもなく、それでもどこかあどけなさの残る大きな眸だ。
再び交わす言葉のなくなった時、男は、華奢な腕が微かにふるえている事に気がついた。ナイフを握りしめたその手が、ちいさく、なにか言いたげにふるえていた。
少年のかんばせは歪んでいた。長いまつ毛に縁どられた大きな眸が涙を湛え、幼さがいっそう際だつ。
男が驚きに瞠目していたその時、からん、と高い音をたてて、ナイフが床に落ちた。
「……どうして泣いているんだ」
少年の答えはなかった。
うつむき、幾度拭えどこぼれ落ちてくる涙を必死に拭っていた。
「生きろと、いうのか」
男は穏やかに尋ねた。
少年は答えなかった。
男はそれ以降なにも言わずにゆっくりと立ち上がると、すすり泣く少年の小さな身体を強く強く抱きしめた。