秘めた想い~紅い菊の伝説2~
 理恵は動かなかった。
 身体から発せられる嫉妬や憎悪の感情を周囲に放ちながらも、その身体を動かそうとはしなかった。
 しかし、啓介も、そして『紅い菊』も気を許すことはしなかった。
 何故ならば『もの』はよく人を欺くからだった。そして理恵に関しても、それは例外ではなかった。
『やはりこの身体では限界があるな…』
 理恵の身体から声が言葉を発した。
 そしてゆっくりと身体を起こしていった。
 その立ち姿はバランスを崩し、両手を下げ、首を項垂れていた。長い髪が顔を描くし、口の端からは涎が垂れていた。
 それは既に中学一年生の少女の姿ではなかった。
『この身体はもういらないな…』
 声はそう呟くと理恵の身体を痙攣させた。「やめろ!」
 啓介は叫んだ。
 声が何を目論んでいるのか、彼にはわかっていた。
 声は理恵から離れようとしているのだ。
 何とかそれを阻止できないのか?。
 啓介は瞬時に考えを巡らせた。
 ボコッ…。
 啓介の願いは届かず鈍い音とともに理恵の額が割れた。その割れ目から血塗られた『もの』が蠢いているのが見える。
 ボコッ。
 再び鈍い音がすると理恵の身体が反り返り、後ろに崩れ落ちた。
 啓介と『紅い菊』が駆け寄る。
 理恵の身体は鈍い音を立てながら激しく痙攣を繰り返している。そしてその頭部からはまるで脱皮をするかのように血塗られた『もの』が這い出てくる。
 やがてそれは二人の前に姿を現した。
 それは蛆(うじ)だった。
 人の頭ほどもある大きな蛆そのものだった。「やっと出てきたか…」
『紅い菊』が嬉しそうに呟く。
 理恵の身体は脳があった場所が窪み、激しく痙攣している。
 既に彼女は事切れていた。
「きさまぁ」
 啓介の怒りが頂点に達した。
 手にしていた青い剣を一気にその蛆に振り下ろした。だが剣は蛆を捕らえることなくコンクリートの床を走った。
 蛆は血を滴らせながら中空に浮き二人を見下ろしていた。
『人間ごときが、私に刃向かおうとするとはな…』
 蛆は身体を脈打たせている。
『だがそこまでだ!』
 一瞬蛆の身体が収縮したかと思うと、次の瞬間激しく発光し、啓介と『紅い菊』を弾き飛ばした。啓介と『紅い菊』はフェンスに思い切り叩きつけられた。啓介はその弾みで手にしていた剣を放してしまった。
 中空から蛆の嗤う声が聞こえてくる。
「お前『もの』ではないな」
 背中を強く打ち、苦しい息の中で『紅い菊』は言った。
『そうだ。私は『もの』などではない。私はマゴット。人は悪魔と呼ぶ』
 蛆の、マゴットの嗤い声が冬の空に吸い込まれていく…。
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