桜 音
見惚れていると、男の子がこちらに気が付いたらしい。
目が合い、しばらくそうしていたように思える。
「……こんばんは」
程よく低く、甘い声。
「こんばん、は」
震えてしまった、私の声。
彼はくすりと笑うと、
「こんな時間にどうされましたか」
「え、いや、ええと」
「寮を脱け出し、もしかして、逃げようとしたのですか」
ぎくり。
「おや。図星でしたか」
「……」
そう。私はここの学校の寮から逃走しようとしていたのだ。
「……あなたの名前はなんていうのですか」
唐突な質問に目を見開いたけれど、すぐに調子を取り戻し、
「……桜井色葉(サクライ イロハ)」
「そうですか。色葉さん。僕の名前は椎葉依(シイバ ヨリ)といいます」
椎葉依。普通科の中では全然聞いたことない名前だ。
……もしや。
「不法侵入……ですか」
ここの学生ではないのなら、すぐに先生に報告をしに行かなければならない。
一目惚れをしたからと言って、悪を見逃すわけにもいかないし。
彼は目を丸くしてから、またくすくすと笑いだし、
「いえ。僕はここの学校の、音楽科の二年生ですよ」
音楽科……。それなら知らないで当然だ。普通科と音楽科の校舎と寮はかけ離れているから。だから校舎内でばったり会うということもない。