桜 音






 見惚れていると、男の子がこちらに気が付いたらしい。

 目が合い、しばらくそうしていたように思える。


「……こんばんは」


 程よく低く、甘い声。


「こんばん、は」


 震えてしまった、私の声。

 彼はくすりと笑うと、


「こんな時間にどうされましたか」

「え、いや、ええと」

「寮を脱け出し、もしかして、逃げようとしたのですか」


 ぎくり。


「おや。図星でしたか」

「……」


 そう。私はここの学校の寮から逃走しようとしていたのだ。


「……あなたの名前はなんていうのですか」


 唐突な質問に目を見開いたけれど、すぐに調子を取り戻し、


「……桜井色葉(サクライ イロハ)」

「そうですか。色葉さん。僕の名前は椎葉依(シイバ ヨリ)といいます」


 椎葉依。普通科の中では全然聞いたことない名前だ。

 ……もしや。


「不法侵入……ですか」


 ここの学生ではないのなら、すぐに先生に報告をしに行かなければならない。

 一目惚れをしたからと言って、悪を見逃すわけにもいかないし。

 彼は目を丸くしてから、またくすくすと笑いだし、


「いえ。僕はここの学校の、音楽科の二年生ですよ」


 音楽科……。それなら知らないで当然だ。普通科と音楽科の校舎と寮はかけ離れているから。だから校舎内でばったり会うということもない。


< 2 / 6 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop