ファントム・ブラック
「中秋の名月だね」
田中さんが言った。ふらつく私の腰に手を回して、ゆっくり歩きながら。
見上げたら、ぐるんと大きく視界が歪んだ。意識が遠退いて、何だか気分が悪くなる。
思わず立ち止まったら、
「大丈夫?」
と、田中さんが心配そうに覗き込んだ。
「だ、大丈夫です。すみません」
答えると、田中さんは固く手を握ってくれた。本当にドキドキが収まらなくなっていく。
アパートの階段の下で私を支えてくれたまま、田中さんがそっと顔を寄せてくる。
「気をつけてね、階段上がれる? 」
「はい、ありがとうございました」
「また会えるかな? 今度は二人で」
耳元で囁かれた言葉に、顔が一気に熱を持つ。田中さんの顔をまともに見ることができず、私は黙って頷いた。
おぼろげに携帯電話のメアドを交換した後、田中さんは階段を上がるのを手伝ってくれた。
なんて優しいんだろう。嬉しさと恥ずかしさとが入り混じった気持ち。
部屋に入った私は、「ただいま」を言うのも忘れてベッドに飛び込んだ。
「ぎゃっ」
変な音とともに、柔らかいものを踏んづけた感触。
顔を上げると、私の腕の下に猫がいる。じっと私を睨んで、見るからに不機嫌そうな顔。
いつもなら引き下がってるとこだけど、今日の私は違う。
猫の脇に手を入れて、高々と抱え上げた。ちょうど、赤ちゃんに高い高いをしてあげるように。
自分でもなぜ、そんなことをしようと思ったのか分からない。