ファントム・ブラック
「やめろ」
穏やかな声が、田中さんの動きを止めた。
私も驚いた。
誰もいないはずの部屋の中から、声が聴こえたのだから。
私の目に飛び込んだのは、ベッドに座った若い男性の姿。しかも結構ハンサム、私好みかも……なんて思ってる場合じゃない。
「はあ? 何だよ」
田中さんの声が変わった。今にも喧嘩でも始めそうな怖い声。対する男性は無表情のまま、こちらに歩み寄ってくる。
誰か知らないけど、こんな所で喧嘩なんてやめて……と私は祈るしかない。
「ここ、俺んちだから、出て行ってくれない?」
見知らぬ男性が、私の腕をぐいと引き寄せる。
「嘘だろ? 一人暮らしって言ってただろ?」
強張った表情の田中さんが、今度は私に詰め寄る。
いや、そんな人知らないし。
ここは私の家なんだけど……
何て答えたらいいのか分からない。
「先に言っとけよ」
と舌打ちして田中さんは出て行った。
いったい何なの?
「あなたも! 何でここにいるの!」
と言ったら、彼が私の肩を抱き寄せた。彼の艶やかな黒い髪から、ほのかなシャンプーの匂い。
「借りを返してやったんだ」
にっと笑って、耳元で告げる。
柔らかな息遣いに、きゅっと肩を掠めた。
「は? 借り?……」
言いかけたら、口を塞がれた。
彼の顔があり得ないほど間近にあって、思いきり突き放したいのに体から力が抜けていく。
彼の腕の中で、意識が遠退いていく。